少数地域での民族教育、民族学級とは
            (後篇・前号 の続き)


ファンボ・カンヂャ
                              皇甫康子

(3)少数地域での民族教育(続き) 

差別を受けたとき
 
 自分たちしか受けない差別なんですね、朝鮮人差別というのは。日本人の子に対して「朝鮮人のくせに」なんて言いませんし、明らかに朝鮮人の子だけをターゲットにした差別事象に対して、確認できるのは、その場に日本人の教師がいても、「子どもが言ったことだから」とやっぱり言われます。そういう差別事象を小学校1年2年生の時に受けて、おかしいなとひっかかって、いややったなあと思うその思いを確認できるのは、その子が家に帰って迎えてくれる親だけです。しかし、親がその事をきちっと受け止めることができるような状況であればいいんですけれども、それが見過ごされてしまうと、どんどん進んで、どんな人権侵害を受けてもわからない。

 何が人権侵害なのか、わからない。私もそうでした、今から思ってみればね。こわいですよ、みなさん。小中高の時代に教師が言った言葉が、みなよみがえりますよ。何かひっかかっている言葉、いややったなあ、あれ、という言葉が。別に露骨な差別ではないけれど、何であんな言い方しはったんかな、って。
 例えば、進路指導の時に、私は高校の担任の教師から、「大学に行きたい」と言ったら、「朝鮮人だからやめろ」と言われました。「無駄や、就職ないぞ」と。「おまえとこは経済的に大丈夫なんか」と。朝鮮人はみんな貧乏だと思っているんですね。実際そういう家庭は多かったと思いますが……。「お前は経済的に大丈夫なんか。医者になるというのやったら認めてやろう、だけど、この学部の大学へ行くのやったら、やめとけ。何の足しにもならん」と言われました。

 「教師になりたいから、大学行って教育委員会の試験に通ったらいいんでしょう」と言うと、その時言われましたね、「朝鮮人は教師にはなれない」と。それを聞いてとても気分が悪くて、でもそれは先生が私のことをとても心配して言ってくれているんだと、私のためを思っていってくれるんだと思いました。しかし、家に帰って、親に言ったら、親が怒ってくれました。「何という日本人なんだ」と。「そういう差別的な社会を作っているのは日本人のお前たちやないか。それが教え子に向かって、日本人の自分ががんばろうというような、今はなれないけれども先生たちもがんばっているから、がんばって勉強せえというような一言がないか」と。そう言ってくれて、それで気持ちがすとんと落ち着きました。親は、「そんなしょうもない進路指導とは関係なく、自分が行きたいところへ行け」と言って、お金は、私が一族の中で大学に行ったのははじめてだったので、親としては何とか行かせてやりたい、自分が学べなかったので、遺産は残してやれないけど学費は出してやると言ってくれましたので、事なきをえました。

 私の高校はわりと自由で、おもしろくて、人権学習もいっぱいしているような学校でしたので、担任外の先生で信頼できる人が多くて、このことを告げると、「世の中は変わるんや、今がんばって勉強しておきなさい、絶対に変わる。人生は自分で決めなさい」そういうことを言ってくれた先生も中にはいました。

 差別を受けても確認ができない、そんな時に学校に民族講師の先生がいれば、親も相談に行ける。親も大変な状況ですし、だいたい、子どもは親に、なかなかこんなんされた、あんなんされたと言いません。なんとか自分で解決しようとする。例えば、ちょっとした不用意な発言に対して、いちいちそんなこと言いません。ためているんですね。そして、ある日突然に、いろんなことがわかるんですけれども。

 「何で言わなかったん」と聞くと、うちの子の場合はですよ、他の家のお子さんは違うかも知れませんが、「そんなこと一言でも言おうものなら、お母さんは私たちが民族差別を受けないかビンビンに張っているから、ショックを受けてすぐに学校の先生 にワッと電話して、すぐに学校に来るだろう、それをされたら困ると思って言わなかった。毎日学校に行くのは私なんや。」先生に注意してもらっても、結局子どもどうしの関係ですから、先生がいない時にいやらしいことをもっとされる。結局このことは自己解決、自分が解決しなければならないという思いが強くあるんだけれども、それだけではなかなかたちゆかないときもあって、また、自然にいろいろなことが消えていく時もあるんです。 

 例えば、中学校に行きますと、その学校にはここ数年本名の子が年々入ってきていまして、うちの子ともう一人同じ学年に本名で来ているお子さんがいました。仲間がいたんですね。しかし、小学校にはそれなりの仲間がいても、中学校では三つの小学校が一緒になってその中で温度差があり、本名の子がいるといないでは取り組みの形が全然違います。やっぱり何もわからずに来た子どもは、「けったいな名前のやつがおるなあ」と、もう最初からこれですね。こういう洗礼を受けながら、毎日毎日がんばるわけなんです。そこで、なんとかまず最初に、本名を名のっている子どもがいて、いろんな国の子どもがこの学校にはいるんだよということを、取り組んでほしい、学校全体で取り組んでほしい。
 

子どもの立場から
 
 うちの子どもが小学校二年の時に本名宣言したんです、色々な事情で通名を名のっていた時期があって、二年の夏休み前ですか、ようやく本名宣言ができたんですね。本人ずいぶん喜んで、担任の先生もがんばってくれたんですが、私が腹が立ったのは、クラスだけの本名宣言に終わってしまったことでした。横のクラスには本人がちゃんと行って、学年は何とかクリアできたんですが、全校生徒には知らせてくれないですね。私は、子どものことを全校朝会の時に紹介してほしい、今までこういう名前で行っていたけれども、これから朝鮮人として本名で生きていくのだから、宣言させてやってほしいと言ったら、校長がすごくびっくりして、「そんなプライベートなことを全校朝会で言うわけにはいきません、そんな事を公にして差別受けたら責任持てません」と言う。でも、公にしない方が差別を受けるんですよね。変な名前やとか、本名を名のっていたらうわさで広がって行きますし、きょうだい関係もありますから。しかし、全校朝会で名のらせてほしいと言ったことは、やめてほしいと言われました。

 こういうことがあっては駄目だと思って、中学校に入るときにもかなりいろいろな先生方の配慮があって、下の子の時には入学当初から取り組みがありました。しかしそれでも、やはり出てきました。違う小学校の子どもさんから、わざとですね、うちの子は、「柳」と書いて「ユウ」と読むんですが、それを「やなぎ」と読むんですね、それが柳(やなぎ)君というのも一人いたんです、日本人の子で、ややこしいんですが。何かの委員会の活動で、うちの子が前に立って司会をしていて、あまりうるさいので、ある男の子を注意したんですね。すると、注意された腹いせに。「おまえ何人(なにじん)や」と聞いた。「何人て、どういうことよ。私は韓国人って言っているじゃないの。何を、そういうことを聞くのよ。関係ないじゃないの」と言ったら、「おう、朝鮮人はこわい」って今度は言ってきたんですね。これって、常套手段ですね。「おうこわ、別に悪気があって言うたん違うのに、すぐそうやって朝鮮人は怒るんじゃ」と、そう言われた。この時、同じ小学校の子が、さすが一緒に育つというのはこういうことかと思いましたけど、「なんでそんなしょうむないこと言うんや。こいつは韓国人や言うてるやないか。第一、今の話し合いで、何でなにじんて聞くねん。」ということを言ってくれて、すごくうれしかったと家に帰って報告していました。

 しかし、その子はあきらめずに、毎日毎日うちの子を呼ぶんですね。「何ちゅう名前やった? やなぎ、やったな、あっ、ごめんごめん、ユウ、やった」と、これを繰り返されて、非常に落ち込みました。「先生が、へんにばんばん取り組むから、こんなこと言われるんや」とか、涙ながらに訴えていたんです。「困ったなあ、それは。先生に話して、取り組みのトーンを落としてもらおうか」と言うと、「いや、がんばってんのに、そんなん言うたら、先生に悪いからそれも言わんといて」。もうジレンマになって、学校休みたいという状況になりました。これでは困るなと思って、毎日話し合って、結局それではどういう方法がいいかを考えました。まあ、先生に言っても、長年の彼女の経験の中で、根本的な解決にはならないとわかっていますから、話し合いをしよう、話せばわかる、ということになりました。だんだんね、その子があまりにひつこいんで、周りの友だちもいいかげんにせえよと怒りだしてきて、それもよかった。それで、今度は何をするかいうと、その彼はうちの子が一人の時をねらって言うんです。トイレに入る、トイレから出てきた、そのすれ違いざまに言う。そういうことが何度か起こって、うちの子は頭にきて、トイレの前でその子の腕をむんずとつかんで、「なんでやのん。何回も言うてるやん。何でそうやってわざと言い間違えんのん、人の名前を。私があんたに何か悪いことしたん? あんた何か昔朝鮮人にいやなことでもされたん? ちゃんと話し合おうよ」と言ったら、相手はびっくりしてあわてて、「いや、何もないんや、ただうっとおしいんや、うっとおしいから言うたんや」。それで、うちの子が「うっとおしい! うっとおしいから私のことばかにしたん!? でも、これからはやめてね」と言ったら、一応謝ってくれて、それで解決ということになったんです。

 私はそれを聞いて、娘に、「在日朝鮮人は日本人のストレス解消のために本名を名のっているわけではなくって、当然の生きていく権利として名のっているんだから、あなたのストレス解消のために、私をターゲットにはせんといて。もっと違うやり方を学んでほしい、と今度言え」と言ったら、「あっ、そうか、今度言うてきたらそう言うたるわ、ええ手やな」と言って、そうやって親子で話し合って、毎日毎日子どもがどんな顔で帰ってくるか心配していました。今日はよかった、ああ、今日はしんどかった、と。そういう思いをして、何カ月間にもわたってこういうやりとりがあって、子どもたちはどんどん打たれ強くなっています。
 

府立高校で
 
 高校に上がって、上の子どもの時にはちょっと大変だったので、その話を後でしますけれども、下の娘が高校に上がった時に、また色々な中学から来ます。第一学区ですので、箕面、豊中、池田、豊能、能勢、それに大阪市の北の方から子どもさんが来るわけですけれども、やはり、取り組みの差というのは歴然とあります。池田をはじめ「在日」の取り組みのある地域の子は、在日韓国人、朝鮮人がいる、本名の子もいるということを知っている子が多かったです。
 うちの子がクラブに入ったときのことです。数日たって自己紹介もあって仲良くなった時に、同じ部員から「あなた変わった名前やけど、日本人やね」と聞かれたそうです。また来たか、ですね。「何考えてんのん、私は朝鮮人やねん、これは朝鮮人の名前や」と言うたら、「ほう、そうなん、ほんなら、朝鮮語しゃべれるわけ? だって日本語しゃべってるやん」とか言われて、絶句した。その時、先輩が、ぱっとね、「あんた、何も知らんねんなあ。うちらがアメリカで生まれ育ったら、日本語教育受けへんかったら英語しかしゃべられへんやろ。ユウさんは日本で生まれて育っているんや、日本の学校しか行ってへんのや、朝鮮語しゃべられへんでも当たり前やろ」ということを、言ってくれた。
 でも、「在日」の子どもは、川西市の中学校などではブラスバンド部が君が代を吹奏するわけですね、だから、意識のある「在日」の子はブラスバンド部に入れない。そんな狭められた中で生きています。
 

本名を名のる
 
 そうやって、「本名を名のる」という取り組みを私はしているのですけれど、もちろん隠しているお子さんも、名のれれば名のりたいわけで、うちの子が小学校で本名宣言して名のった時に、通称名で来ている子どもの先輩たちがうちの子に駆け寄って「ユウ君えらいなあ、本名で来てるのん。僕もチェ、言うねんで」「僕もキムいうねんで、実はな」って、「隠していて、勇気がないけど、君のこと応援してるからな」っていうことを言ってもらえました。誰だって、名のれる状況があれば名のりたい。「通称名も自分の名前だ」と「在日」が言うと、それを聞いた日本人が、「在日」の子は日本名と本名を自由に選択して生きているんだというような間違った考えを持ってしまうことが、最近増えてきているように思うんですけれども。違いますよ。通称名しか名のれないような状況があるんですよ。ある人などは、本名自体、親も知らない、子どもも知らない、読み方も知らない、こんな情けない「在日」なんだから、本名なんか名のる必要ないと思っておられる。そんなもの、当然ですよ、何も学んでいないんだから。学ぶ機会がなっかったんだから。

 本名を堂々と名のるということで、正面きって、差別する人間に対しては闘うことができるのですね。人権侵害だから。通称名を名のっていたんでは、どんなに朝鮮人の悪口を言われても、勇気を奮い起こして「何を言うてるの」とは、やっぱり言いづらい。そういった意味でも、本名を名のることで、私たち保護者は、子どもを守ろう、闘うことで子どもを守ろうとしてきたわけです。池田では、少数在籍ではあるけれど、本名で通っている子どもたちは比率としては非常に多いと思います。五校ある中学校のうちの一つでは、四人が本名で通っています。保護者会でも、通称名の方ももちろんいらっしゃいますけれども、やはり、環境整備ができて、自分の子どもの色んなメンタルな部分での自信がつけば、本名を名のりたいなと、今準備中の方がいらっしゃいます。そういう意味で、この保護者会というのは、立ち上げの意味が大きかったと思います。また、国際結婚している方、帰化しておられる方も、保護者会に来られることもあって、色々な交流ができます。フィリピンのお母さん、中国のお父さん、いろんな人との交流で、池田の中でもフィリピンの保護者の集まり、中国人の子ども会のようなものもできてきたと思います。皆、この「在日」の保護者会がさまざまな運動の基本になったと思っています。
 

地域活動
 
 また、地域での啓発も大切です。池田は十万都市で、その約1割が外国人で、その半数以上が韓国人、朝鮮人です。「呉服(くれは)とり綾羽(あやは)とり」の渡来文化の色濃い池田ですので、市民カーニバルでチャンゴをたたいたり、子どもたちが民族衣装着て踊るだけでもインパクトが強い。やろうやないか、というので、子ども会活動が始まりました。その中でうれしかったのは、通称名を名のってなかなか元気になれない子どもたちが、このカーニバルに出たら、もう本名宣言と同じなんですね。おじいちゃんおばあちゃんも一家こぞって来て、孫の姿を見て喜んでくれる。近所のおっちゃんやおばちゃんたちも見ていてくれて、「ああ、あの子朝鮮人やったんや、がんばってるやん」とか、後で「見たよ」とか言うてもらえるような、そういう地域での啓発活動もしています。
 差別事象への対処というのは、当事者はなかなか言いづらいですね。やはり、仲間の保護者が一緒にその学校に行って話をするとか、研修をしてもらうように要望するとか、細々とそういう活動を現在も続けています。現場の先生たちとの密な連携、連帯、これが池田という少数地域の良さで、先生方との強い結びつきが、運動を推進していけた、民族教育を推進していけた、勝ち取っていけた、大きな力だったと思います。保護者と先生方のつながりの中で、府外教やいろいろな勉強会があると聞くと、一緒に出かけたりしました。先生たちは色々な情報を持っていますから、保護者にも流していただいて、保護者と教師が一体となって取り組んでこれたのが、少数地域の大きな利点であったと思います。
 

小中高の連携
 
 また、先ほど本名宣言の時の例を出しましたけれども、クラスから学年、全校へと取り組んでほしい、また、池田市全体の取り組みにしてほしい、また、小学校だけじゃなくて、中学校との連携、また、高校との連携もしてほしいと思います。

 うちの子は、府立高校に行ったのですが、自分の名前を、教師から、もう二年生になっているのにその学年の先生から、担任からも、「やなぎ」と呼ばれた。「先生、それ違います」と訂正して言ったら、「ああ悪かった」。また次の時間に「やなぎ」と呼ぶ。そういうことが積み重なって、学校に行けなくなってしまった。がんばらねばとすごく思っていて、でもがんばれない自分があって、朝、家を出て、さまよい歩いて夕方帰って来るんですね。「お弁当、寒いのにどこで食べた」と聞くと、「公園で食べた」と言う。本当にもう胸が詰まりましたね。その教師たちとも話し合って、やはり親として、その学校の校長先生や先生たちにも集まっていただいて話をして、職員研修を組んでほしいと言いました。本名を名のっている子どもの状況というのはどういう状況なのかということを、教師も学んでほしい、全校生徒にも学んでほしい。なんと、その高校には、本名で来ている生徒が、何の取り組みもないのに三人いたんです。中国人の子どもも入れると四人いたんです。交流会もできたのに、それもできなかった。がんばってくれた先生もいましたが、職員会議で、時期尚早だと否決されたと言うんです。
 うちの子どもが元気になれるにはどうすればよいかを考えました。日本人の子との意識のギャップがすごく激しい場合、本名を名のってがんばっている朝鮮人の子は、だんだん友達関係ががうまくいかなくなってさびしくなってしまう、一人になってしまう。いつもいつも朝鮮人の仲間が学校にいるわけではありませんから。豊中の国際交流センターにおじゃまして色々な国の友だちができたり、民族キャンプに出かけていって民族的な自分の素養も身につけたり、ということもしました。でも、日常の友だちというところで、もっと日本人の友だちと話がしたいんだけれども、なかなかそれができないということで、落ち込みやすい状況にありました。これは深刻な問題だと思いますね。自分のアイデンティティーは日本人にはわからないと思ってしまうと、毎日暮らしている中で苦しいものがあります。

 下の娘は、そう思って暮らしていたけれども、やはり中学校の熱い取り組みのおかげで、わかってくれる子がいる、日本人の子と色々な話ができるんだということに目覚めて、今は、日本人のすてきなお友達に出会っています。この頃は朝鮮奨学会にも行って、朝鮮人の子とも友だちになって、うちの子は小さい頃から民族キャンプとかに行かせていたんですが、「お母さん、朝鮮奨学会で出会う朝鮮人の高校生って、たよりないわ」と言う。「なんで」と聞くと、「生野出身や言うて、民族学級もいっぱい経験しているのに、本名名のってへん」。「それは色んな事情があるんやろう」と言うんですが、「朝鮮人やから、まあ色んな事は共有できて楽しいけど、もっと、闘う朝鮮人と出会いたいわ」ということを最近言ってきます。「ただ朝鮮人として生きてるだけではだめなんや、やっぱり闘って行きたい。闘う日本人を探して、闘う朝鮮人も探して、お友達になりたいわ」と、この頃は言っているんです。
 

地区外教
 
 府立高校では、上の子の時に大変な思いをしまして、色々な人たち、民促協の先生たちや、もちろん池田の先生たちのお世話になりました。やっぱり池田の先生たちのサポート、連携はありがたかった。
 池田市の民族交流会には、池田にある府立高校の先生方がフィールドワークや交流会があると参加してくれたり、池田高校の「朝文研」の生徒さんも来たりとかそういう交流ができてきました。特に池田高校の先生は熱心で、毎回来ていただいて子どもたちに声をかけて下さるんですね、「池高来て下さい、朝文研があります」「本名名のって下さい、僕たちがんばります」と。でも、誰もまだ池高へ行っていないんです(笑)、非常に残念なんですけれども。今もこの連携は生きていて、上の子の高校の先生方も、地区外教ができると、その連帯の中で、来ていただいて色々な話ができるようになりました。小中学校ではこの子はこんなにがんばって来たんだ、高校ではどんな様子なのか、みたいな話ができるようになってきているように思います。

 また、うれしいことに、豊能地区では、豊中、池田、箕面、能勢、豊能の地域で色々な交流がなされています。例えば、池田などは、キャンプ一つするのも大変です。お金もない。人数も少ない。せいぜい焼き肉パーティーするのが精一杯です。でも、キャンプ行かしたいなあ、民族講師の先生にも会わせたいなあ、豊中にお願いしよう!(笑)豊中の民族キャンプ(夏季ハッキョ)に受け入れてもらうという形で、うちの家の子どもなどは、豊中の学校の卒業生でもないのにそのキャンプに毎年行って、もう今やリーダーとなって活躍しています。箕面は、今は知りませんが、結構、市からのバックアップがあって、チャンゴの講習会があるとか、韓国語の講習会があるとか、そういうことを聞きつけると、また、箕面まで行ってみんなで楽しむ。そういう連携もしています。また、豊能は大阪市内から遠いので、民族講師を呼ぶこと自体が大変です。池田の交流会に来て下さって、少しチャンゴが叩けるので、私が行っていろいろお手伝いできたという風な人的交流もされていて、この十数年、思い返してみると、本当に色々な成果があったと思います。少数地域だからこそ、助けを求めて、連帯してやっていかなくてはいけないという思いの中で、ここまでやれてきたんじゃないかなと思います。
 
 
(4)民族教育とは
 
人権教育としての民族教育
 
 民族教育については、文章に詳しく書かせてもらっているので、それを読んでいただきたいのですけれど、やはり、人権教育だと思っているんですね。
 私は、朝鮮人というのを意識しないで生きれる社会を、ベストだと思っているのです。朝鮮人というのは、外国人登録証を持たされる、外国行くときも、就職するときにも、入居差別に遭うときにも、結婚するときにも、いつも、あまりよろしくない感じで朝鮮人というのを意識させられます。本国の人なんかね、自分が韓国人、朝鮮人と思って生きてはいませんよ、毎日。日本人もそうでしょう、それがあるべき姿でしょう。しかし、私たちはそうじゃない。やはり、差別的な、排除の社会があるからですよ。だから、私たちが本当に解放される日というのは、朝鮮人であるということで不利益をこうむらない社会になったときですよ。

 中国の延吉(イェンチー)というところに、1995年、北京女性会議があったときに行きましたが、そこは朝鮮族の町です。中国人だという誇りを持っていますが、しかし、朝鮮族だと言っています。いいなと思いました。みんなバイリンガルですね、小さいときから公立の民族学校で勉強しますから。中国の政策も多々問題はありますが。バイリンガルの上に、英語や日本語、四カ国語くらいをしゃべれるように勉強している朝鮮族の若い人には、通訳が多い。北京の会議でもたくさん会いました。
 そのように、朝鮮人であるということをことさら意識しないで生きることができたらそれに越したことはないと思いますが、「在日」の場合は意識せざるを得ない。それを意識して、やっぱり元気になれない。胸を張って生きることができない。この状況を何とかしたいんですね。だから、私は、やはり、民族教育は人権教育だと思っています。権利意識も身につけなければならない。自尊感情もつけていかなければいけない。親の世代や、おじいちゃんおばあちゃんの世代のことに思いをはせて、「在日」を再評価していかないといけない。朝鮮人の歴史、在日朝鮮人の歴史を残していかないといけない。

 また、差別にあうときは、一人です、どんなに小さいときでも。親が代わってやることも、教師が守ってやることもできません。ですから、どういう闘い方をするのか。いつもいつも正面きって闘うことばかりがその子を守ることにはならない。闘いたいけれどもやはり状況を見なければいけない。ある時には、自分を守るために逃げることも大切かも知れない。また、話し合うことも必要かも知れない。色々な闘い方を培っていく、民族学級はそういう場であるべきだと私は思うのです。これから生き残っていける、サバイバーとして、この日本社会で本名を名のって朝鮮人として、人間らしく生き残っていける、その闘いをするための力を養うこと、それが民族教育だと思っています。

 他の民族について言うと、「在日」の子どもたちだって日本人の子どもたちと同じように、白人至上主義ですね。大好きですよ、アメリカが。ユニバーサルスタジオへ行って、マクドナルドかじって喜んでいるんですから、日本人の子どもと大差ないですよ。この日本社会の価値観、多数者の悪しき価値観を在日の子どももいっぱい取り込んでいます。かえって、もっと強烈に取り込んでいるかも知れない。そういう意識自体を何とかしていかないといけないと思います。自分の民族のことは言うくせに、他の民族、フィリピンや中国など他のアジアの人々に対して侮蔑的なことを言う、差別的なことを言う、こういうのはやっぱり、許せない。そういうことをする子に育ててはならないと思います。
 

両性の共生教育としての民族教育
 
 もう一つ、ここで声を大にして言いたいのは、女性差別に対して非常に鈍感だということです。民族教育自身がそうなっていないでしょうか。そこをどうしていくのか。
 日本人の先生は、男女共生教育、そういう風な姿勢でがんばっておられる先生いっぱいいるでしょう。民族教育の中で変やなあと思うことないですか。なぜ言わないんですか。伝統文化を考えるためだとか、奪われてきたものを取り戻すためだとか、それはわかりますよ。でも、何のために文化を知るのか。

 昨日、在米韓国人の子どもたちの民族劇団の公演を見てきたんです。朝鮮版シンデレラ、もう女性差別がばんばん。韓国でももうこんな古い劇やらないだろうなと思うようなものでした。でも、それは民族文化の継承だといってやらざるをえない。アメリカではまだ二世教育は始まったばかりですから。「在日」もそうだったと思います。しかし、もう何十年この日本で生きているんですか。これからは、さまざまな差別の問題と通じ合って行かなくてはいけない。民族学級自体が、民族教育自体が、チャンゴたたいて、踊りを踊って、文化祭発表する、これで一年終わってしまうのでは情けない。もちろん、現状ではこれで精一杯という側面もあるとは思いますが……。
 この間アメリカへ行ったときに、日系米人の博物館に行かせてもらって、本当によかったんです。日系人の人たちは、ただ日本人としての誇りを、なんて言ってませんよ。「あらゆる人の人権」なんですね。公民権運動に、やはり日系人も学んできた。こういう視点に立った運動を、私たちも目指さなくてはならないのではないかと思います。
 
 
名のれ、誇れ、闘え
 
 私も、いつもつい言ってしまうんですけれども。子どもに対して「強くなれ」とか「がんばれ」とか。言わなくてもね、態度で示してしまうそうです、親というのは。言っていないんですよ。でもね、「お母さんの場合は、態度でわかる、目つきでわかる」と言うんです。「<何ひ弱なこと言うてる、立たんかい>と言ってるのが目つきでわかる、立てない僕が目を伏せてしまう」そう言って泣かれましたね、「お母さんみたいにだれも強くなれない」。その通りやと思います。だから、やはり、弱い自分も認めていきたい。でもね、こういう風に言うと、「在日の子が、がんばれないと言っているから、何もしないでいいんや」という声が出る。とんでもない。なんでがんばれないか、そこのところを考えてほしいんです。何で本名を名のりたくないのか、名のれないのか。何で今学校に行きたくないのか、その原因は何なのか。そのことをじっくり話し合っていかなければならない。

 本名名のるということは当然のことでしょう、何かを隠して生きることの方が心地よくないですよ、気分が悪いですよ。自分のことを明らかにして、負けるもんかと生きることほど気持ちのいいことないですよ。私がかかわっている解放学級の子も、「不安だけど、はっきり自分のことを言った方が、前を向いて生きれる」と言いました。「隠さんでいいということは、気持ちいいことや。一回こういう気分を味わったら、人間闘える」って、小学生が言います。
 そういう意味で、いろんなメンタルケアが必要だけれども、「よしよし」だけではだめです。何が原因で立てないのかをかんがえてほしい。在日の子は、本名を名のる権利があるんです。その権利を侵害してしまう取り組みになっていないかどうかは、やはりみなさん、もう一度検証してほしい。変に「寄り添う」ということはどういうことなのか。日本人だから言いにくい、「在日」の子に本名名のれというのはね。言わなくてよろしい。本名名のれ、なんて言わなくてもね。名のれる環境になったら名のります。民族講師いっぱいいるではないですか。お手伝いしてもらったらいいんですよ。そういう時にはね、先輩として話してもらう。

 私は、はっきりものを言うと言われていますが、これでも遠慮して言っています。韓国語で、「ヌンチ」と言うんですが、人の目つき顔色を一瞬で見て、ああこの人は私の話をいやがっている、聞きたくないと思っている、とわかります。自分では、これはひがみ根性、いやだなあと思うんですけれど、ある時、カナダの、リンダ・ジンガロというフェミニストカウンセラーがいるんですけれども、彼女から、「ファンボさん、あなたには非常にすばらしい能力があるのよ、それはカウンセラーにも通じる能力なの、一瞬にして人の心が読めるなんてすごいじゃないの」と言われました。やはり私は、差別されたくないから、いつも日本人の顔色をうかがって生活してきたから、人に合わせてしまったり、いやなことでもいいよとしてしまったり、はっきりものを言っているようですけれども、結構、ねえ、そうですねえ(笑)、気を遣って生きています。被差別で、かわいそうとよく言われるけれども、いやな思いをしてきた分、色々な能力が備わっている。その能力を生かそう、これから。私たちには、いっぱいいろんな能力があるから、日本社会は認めてもっと登用しなさいと、そういうことをどんどん言っていきたいなと思います。

 また、「在日」という立場の特性、これも、なかなか複雑でおもしろいですよね。ある知人は、彼女は見た目は中国人、しかしカナダに住んでいてカナダ人、しかし、インドネシアで生まれて育ったから、自分のことを70パーセントはインドネシア人だと思っている。あとの10パーセントがチャイニーズ、20パーセントがカナダ人だと言う。この言い方すばらしいですよね。私も、これから毎年パーセントで、私の中で在日朝鮮人はこれだけ、日本人的な部分はこれだけと、そういうふうに表してもいいのではないかなあ。そういう複雑な「在日」だからこそ、言えることもあるし、考えるられることもあるし、経験できることもあるのではないかなあ、と、もっと「在日」の立場の特性を知ってアピールすることに努めたいと思います。

 また、「なりたいものになりたい」と、この日本の中での在日朝鮮人という狭い枠の中でだけ考えていたのではだめです。本国でも「在日」の位置はどうなのだろうか。本国の人たちの多くも「在日」のことを何もわかっていません。以前に韓国の親戚から、「何で韓国語がしゃべれないのか」と怒られたので、「本国政府は在日の民族教育に対して支援してくれたのか、日本政府にサポートするよう言うてくれたのか」と言ったら、謝ってくれました。片言の韓国語で話したんです。やはり、言葉が通じないとだめなんですね。現在、世界各国に朝鮮人(中国では「朝鮮族」と言いますが)は600万人いると言われています。いろんな国の同胞と会うことがありますが、朝鮮語がしゃべれないのは在日だけなんですよ。情けない。何とか、これから、母語教育をやっていきたいですね。世界で、あちこちに散らばっている朝鮮人がどんなにがんばっているかということも、インターネントの世の中ですから、どんどん知らせていきたいなあと思います。
 
 
(5)川西での同和教育推進の立場から
 
川西市の小学校で
 
 川西でも、いろいろな取り組みをしてきました。とにかく、ファンボ・カンチャという朝鮮人のけったいなおばちゃんがいる、というだけで、学校自体がかなり変わりました。子どもたちの目線が違う。この名前は、やはり、遊ばれましたねえ。それで、1年生とも対決しました(笑)。小学校1年、低学年は普通、文化しかしないじゃないですか。そうですね、ふれあう、というようなこと。それはもちろん入り口として必要ですけれども、差別問題にも取り組みました。そうすると、色んな反応が返ってきて、1年なりに色々考えて、すごくおもしろかった。
 例えば、文化を教えるにしても、「きれい」「おいしい」「すてき」それはいいですよ、しかし、韓国の人は毎日チマチョゴリを着て歩いているわけではありません。普段の小学生はどんな格好でしょう、みんなと一緒です。辛いもの、にんにくも朝鮮人はよく食べますけれど、くさいものが好きで食べているわけではありません。気候風土に合っている食べ物だから、これを食べると身体にいいから食べてきたんです。文化にはそれぞれ必然の理由があります。文化に優劣はないという話をしたら、1年であっても、ちゃんといろいろな価値観、偏見を身につけていましてね、なかなかすごいものがあります。出さないだけ。どんどん取り組めば、それが出てきます。だいたい、腰が引けている先生は、それが出た段階で止めますね。「お、これはやばい、抑えなければ」。でも、出せるだけ出したらいい。出して、とことん話し合って、それが間違っていることを納得させればいいわけですね。納得できなかったら、次に送る、次の担任さんにおまかせすればいい。そういう形で5年間やってきた。もちろん解放学級の子どもたちがいますので、部落問題を中心にやっていますが、解放学級では私が入ってから在日朝鮮人教育の問題など、いろいろ学習しているのでそこで学べるわけですけれども、やはり学ぶことのできない「在日」の子がいますので、そういう「在日」の子に焦点を当てて、学校でいろいろな取り組みをしています。

 今日も、実は甲陽園のトンネルに小学校6年生を連れていきました。はじめて小学生が来たと言われて、徐元洙( ソ・ウオンス)さんもとても喜んでおられましたが、行ってみんなショックを受けていました。「こんな暗いところで働かされて、はあ(ため息)、先生、そら朝鮮人の人は日本人をうらむわなあ」と小学校6年の子が言っていました。私も色んな思いで共感できました。すごいうれしかったです。

 最近、総合学習ということが言われていますけど、前にいた小学校では、複数の教員が入って、私も、同推教員も入り、担任もみな入って、学年全体で同和教育の取り組みをしました。みんなが授業に参加します。最初に前に出ていた先生はいるんだけれど、板書する先生がいたり、突然朝鮮人のことが出ると私が前に出て「それはね」と話し始めるとか、ちょっと行き詰まったらある先生に「どう」と振ったり、そういう実質的総合学習をもう始めています。非常に、これはおもしろい。色んな角度から子どもを見ることができます。これ、ぜひやられたらいいと思うんですよ。職員間が仲良くないとできませんけれども。子どもがその時どんな顔をしていたか、当事者の子どもがこの時は顔を上げていたか、とか。担任さんは必死ですから、横で誰かが何人か複数で見てあげて、後で一緒に打ち合わせして、「あの子、下向いとったで、あの時」「あれ、もうちょっとやった方がよかったんちゃう。突っ込みが足りんかった」とか評価し合って、おもしろい取り組みをしています。
 

学校の外からの風
 
 それと、自慢できることは、本物に出会わせてあげることができたことです。水俣病の授業をやった時には、アイリーン・スミスさんに来てもらいました。本当に闘っている人の話はすごい。教師の話よりよっぽどすごい。ある時には、在韓被爆者問題をやっている市場淳子さん、今また提訴したんだけれど却下されて、もう一回運動再編成ですけれど、市場さんは「私は日本人として、在韓被爆者の人たちに、とにかく、謝罪じゃなくて、応えていきたい」「助けて、と言われたら、応える人間でありたい」「応えることが私の人権運動です」とおっしゃってくださった。その言葉を、子どもたちは本当に深く受け止めました。沖縄戦を体験された方の話であるとか、本当の話を、外から人を呼んできて外の空気を入れることも効果があります。教師がしゃかりきになって、いつも同じような授業展開をしていたら、やっぱり子どもは飽きますね。

 この間もインドのダリットと呼ばれる、カーストの一番下に追いやられている被差別部落のような、ちょうど今、リバティー大阪で写真展をやっています。その女性運動家を招くことができたんです。中学校と小学校と解放学級でお話をしてもらったんですけれども、彼女の闘い方はすごかったです。「闘っていていやなことはありませんか」という質問に対して、「いつもある。ある時には脅迫状、ある時には塩酸をかけられそうになった。また、ある時には警察に不当逮捕された。しかし、わたしは負けない。」解放学級の子にも、「顔を上げなさい、負けたら人間として生きていけない」と訴えてくれました。「ある時、道で通りすがりに私の悪口を言う人がいる。その時に、私はその人に対して、今の言い方はおかしい、間違っています、と指摘します。あなた達はそれができているか。ごまかしてはいけない。うやむやにしてはいけない。一歩でも後ろへ下がると、私たちは生きていけなくなるんです」という話をしてもらいました。子どもたちは、それを聞いて、「すごい!」。ブルナド・ファティマさんという方は、「女性の美意識に対抗して私は大きいんです」とおっしゃるのですが、子どもたちは、これもステレオタイプだと思うんですけれども「闘っている女の人はみんなでかい」と思っています。私とファティマさんを見たらそうですけど、そのうちに、細くて頼りなげな朝鮮人も見せてあげようと思っていますが(笑)。

 このように、教育現場にいると、日本人の先生方がちょっと計り知れないところ、踏み込めないところ、また逆に、やりすぎてしまって当事者の子どもたちを浮かせてしまう、感情移入しすぎてしまう、あなたたちは日本人で、この子と同じ立場にはなれないんだということをわかって取り組んでほしい、頭をもっと冷やしたほうがいい、というようなことも、私が中にいると、気がついて、一緒にやっていけるということです。先生たちから、「いてくれて、すごく安心して取り組めた」「間違いを犯してしまうのではないかという不安から、踏み込むことができない、そこから前に進めないという時に、違う立場の人間が現場にいてくれてありがたかった」と、言っていただきました。この意味で、学校の中に、どういう形であれ、「在日」の人が入ってくることができないだろうか。教育現場の中に色々な国、出自をもつ人たちがどんどん入ってきてくれたら、すばらしい学校教育になるんじゃないかなと思います。

 苦節何年、すばらしい取り組みをされている先生もたくさんおられます。しかし、皆疲れている。がんばっている先生ほど、そこに、仕事が集中するんです。だからこそ、やりがいあっての取り組みですよね、みなさん。「私、あなたのおかげで、こんなすばらしいこと、楽しいことも体験できた、こんな人とも出会えたわ」というような、先生が元気になれるような、自分がしたいと思うような取り組みを、子どもたちにどんどんしてやってほしい。私も、解放学級と出会えたから、皮革工場や、と場へ一回行ってみたいなあと思えます。色々な所にアンテナを張り巡らせて情報交換しながら、毎年毎年違った取り組みを、基本は一緒ですが違った攻め方をしていく楽しさを、今味わっています。
 
 
(6)これからの展望と課題
 
在日朝鮮人教育を基本に
 
 ここで一つ、声を大にして言いたいのは、在日朝鮮人に対する取り組みは、終わっていない、始まったばかりだ、ということです。今、日本語が不自由だとか、色々な国の子どもたちが来ていて、先生方が大変なのはわかります。そちらの方に力を注いでも、仕方がないと思います。しかし、それを逃げ場にしないでほしい。
 在日朝鮮人の問題はある程度すすんだ、ある程度本名も名のったと、ある程度と言っても本当に少ない割合でしょう、未だに公務員になったら新聞の一面に載るんですよ。そんな日本なんです。ようやくマイナスからゼロ、いや、まだまだマイナスかも知れない。在日朝鮮人教育をないがしろにして、多文化共生教育とか言うのはね、とんでもない話です。それが基本にあってこそ、ですよ。色々な国の子どもたち、その本名問題も一緒じゃないですか。新しく来た子の名前、タイの名前、ベトナムの名前、すごく笑われていますよ、現場で。それをどうするんですか。そういった意味で、もっともっと在日朝鮮人教育とリンクして取り組みを進めていってほしい。
 だいたいね、在日朝鮮人教育やっている先生は、多文化教育も一生懸命やっているんです。どこへ行っても、金太郎アメ。広がりが全然ない。これを何とかしていきたいですね。だから、楽しくてわくわくできる取り組みをしたいです。「在日」の取り組み、民族の取り組み、多文化の取り組み、差別の取り組みをやったら、楽しい、得する、今までの価値観が崩されて自分が解放される、とうような取り組みにならないと、いつまでたっても、誰かのためにやってあげる取り組みなんです。だから、続かない、息切れする、やめたくなる。解放教育で自分が解放される、自分の価値観が変わっていく。変わらないと教師なんてやってられませんよね。もっと、教師自身が、魅力的になって、楽しくして、子どもたちにメッセージを発信していってほしい。明日をになう子どもたちを育てるなんて、とても尊い仕事だと思います。

 最後に、定住帰化法案ができるかもしれないということで、もう外国人地方参政権が飛んでしまって、これは非常に困ったなと思っています。これが通ると、日本国籍者が増えて、韓国籍・朝鮮籍で生きてる人間はもっと排除される状況になるのではないかと思います。その時こそ、民族教育というのはもっともっと大切になって、アイデンティティ保護ということを、声を大にして言わなければいけないことになる。また、85年に国籍法が父母両系主義になりましたね。その後に生まれたダブルの子どもたちがこれから国籍離脱問題についてシビアな闘いをしなければなりません。今、もう仲間の子どもたちが準備にかかっています。基本的には、二重国籍のまま生きていきたいというのがみんなの願いなんですが、この問題、やはり学校現場の教師として見過ごしにできるのか。子どもたちがどんなふうになっていくか、国籍離脱を迫られる、強制される、ここを一緒に取り組んでいってほしいなと思います。

 もう一つ、相談窓口が「在日」にはないので、最近ボランティアで、その相談窓口を作りました。「在日」の弁護士は、今や本名を名のっている人が四十人以上ですよ、その方たちの中から手伝って下さることを期待して、被差別部落の女性たちと一緒に、「女性のためのヨロカヂ相談電話」というのを始めたんです。教育相談でも何でも、できる限りの相談に乗りたいと思っています。こういった窓口も作っています。

 家族写真の資料のことですが、これは松井やよりさんがやっている「女たちの21世紀」、アジアの女たちの会から頼まれて書いたものです。この時は、在米韓国人のヨンスン・ミンというアーティストの文章も一緒に載って、奇しくも彼女も家族写真の話でした。嶋田美子さんという、従軍慰安婦問題や反天皇制をテーマした現代アートのアーティストがいます。彼女は海外では非常に有名なんですが、日本ではあまり取り上げてもらえない。知る人は知っている。彼女が家族写真のことをおもしろいと言ってくれて、いっしょに作品を作ろうと言う。キャンバスの代わりにパチンコ台を使ってそれに「在日」の女性史や家族史の写真をのせようと言う。「在日」の家族写真というのは、私たちの世代でもう終わってしまうと思うのです。というのは、本国との親戚などの関係が薄くなってしまう、やはり一世が死んでしまいますので。なかなか四世くらいになると、もう本国の親戚と言葉も通じないし、やりとりができなくなる。家族写真が行ったり来たりしているのを知っているのはもう私の世代くらいまでだと思いますので、そういった意味でこれは非常におもしろい。
 世界各国に散らばっている韓国人の家族写真もいっぱいあるそうです。それを集めて一挙に作品展などしたらおもしろいだろうなと思っていたら、カナダのバンクーバーのアジアギャラリーで呼んで下さった。アメリカのヨンスン・ミンと「在日」の私と日本人の嶋田美子とで、11月2日からバンクーバーでシンポジウムと作品展をやることになりました。これも、また帰ってきましたら、日本でも作品展をやっていきたいなと思っています。このように、色んな形での発信を考えていきたいと思っています。

 「在日」は生きている、それは旧態依然としたかわいそうな「在日」ではないし、色々な回路を持っておもしろいことをやっている人もいっぱいいる。海外で活躍している人もいる。あまり固定観念で「在日」を見ない方が、これから発展性が出てくるのではないかなと思います。 ありがとうございました。


(案内)女のよろずヨロカヂ相談電話 
         TEL/FAX 06-4801-4747 毎週水曜日19〜21時まで
            「在日」・被差別部落出身の女性がスタッフです。
             〒665-8799宝塚市小浜3丁目1-2宝塚郵便局私書箱9号

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