私と在日朝鮮人教育(連載第1回)
むくげ開くとき(1)

 (アンニョンハセヨ)?
                  

法蔵美智子(大阪市教組副委員長)

 「

 私は極度に緊張しながら、覚えたてのハングルを黒板に書いた。

 二学期の始業式のこと、子どもたちは日焼けした肌を輝かせ、「家族と旅行に行った」「海水浴をした」等々、嬉しそうに発表した。そこで私は、市外教の講座で学んだばかりのハングルを書いたのだ。

 するとひとりの在日朝鮮人の子どもが「先生、私、ほんまは、おばあちゃんの国の韓国に行って来てん。韓国で、先生が書いている字、たくさん見たよ。」声が弾んでいた。

 彼女は私の「夏休みをどう過ごしたか」の質問に対し「海外旅行に行った」と答え、クラスの皆から「へえっ! いいなあ」と、感嘆のことばを受けたばかりだった。「帰国」を「海外旅行」と表現し、三年生の今日迄封じ込めてきた「おばあちゃんの国」を、友達に初めて明らかにしたことの重さを、私は大切に受け止めた。
 ――東成区の学校に赴任し、二年が終わっていた。

 それまで何もできていなかった。通名を名のる子ども達。焦るほど、何から始めて良いのかわからない。近隣の学校長が差別発言をし、継続的に確認会なども行われた直後だったが、赴任校の校長に在日朝鮮人教育の取り組みを尋ねると、「心配しないで良い。この地域はおとなしいから」との答えが返ってくるような状況だった。

 ――二十七年前のことである。

 ハングルを板書した日から私は、それまでしばられていた何かから解放され、先ず、在日朝鮮人の子どもたちの目をまっすぐに見ることができるようになり、ようやく実践の一歩を踏み出すことができた。そして私の、ふるえるような実践を、「考える会」のシンポジウムで報告。「考える会」の人たちと初めて出会うことになる。

  ――「考える会」はそれ迄の、「朝鮮学校の門まで」の実践にとどまらず、「日本の学校に在籍する在日朝鮮人児童・生徒の教育実践」を追求。当時、私の所属する東部支部は、多数在籍校を最も多く抱え、民族学級実践校も、既に十数校あったが、組合としての取り組みは皆無であった。実践と運動をつなぎ、その先頭に立ち推進していたのは「考える会」である。私にとっての、いや、生野・東成区にとっての「在日朝鮮人教育と運動」は「考える会」が担っていた。

 その日から、「むくげ」は私の中に確実に形となって芽吹き始める。

 そして数年後、転勤時期をむかえた私は迷わず、民族学級実践校を希望、生野区の北鶴橋小学校に転勤した。

 そこには、金容海ソンセンニムがおられた。                               

(つづく)

     
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