在日朝鮮人教育を正しくとらえるための歴史認識~真実にせまる!!~ (続)
 ―「朝鮮と呼ぶ、本名を呼ぶ」教育の意味とは
印藤和寛(運営委員・2014.10.8の発題内容に事後加筆したものです)

2 現在の安倍政権、日本会議、在特会、2CH―右翼の歴史認識
 この歴史認識は、最近一部の良識ある人々やNYTimesなど海外マスコミが言うように「右傾化した」「従来のサヨクの自虐史観を否定した」「歴史修正主義の自由主義史観」にもとづくものであることは確かです。しかし子どもたちの言葉から実感してきた私たちからすれば、1980年代の子どもたちの一般的な歴史認識は、実はそれと変わらなかった、一貫しているというのが感想です。おぞましいネット右翼は1980年代の一般的な子どもたちが成長した姿です。しかしまた確かに違ってきた面もあります。この点について考えます。

 1980年代までの私たちの歴史認識は、戦後民主主義の到達点という側面と、かつての日本帝国の継承という側面の両方からなっていたように思います。

 教室の中でも「チョンコ」大合唱「朝鮮帰れ」は一般的でしたが、「南京大虐殺って本当はなかったのでは」と食ってかかる生徒がいてもそれはごく少数でした。反面、終戦時の中国にいた100万の日本軍が蒋介石総統の「暴を以て暴に報いるなかれ」という中国民衆へのよびかけによって無事帰国できたことを恩義として言い伝えるのは一般的でもありました。歴史に特別に注意する人にとっては、「だまされていた、被害者」から「戦争を担った者、加害者」意識に進むことも当然でしたし、「アメリカに負けた、中国では勝っていた」から「アジア太平洋戦争」へ、戦争のとらえ直しも自然の道筋でした。

 こうした状況は、教育現場でも、朝鮮については(マイナスの意味で)一貫し、中国については1970年代以降変化がありました。

 中国については1972年田中角栄訪中、1978年日中平和友好条約の時期、パンダやNHK特別番組「シルクロード」・ドラマ「大地の子」が空前のブームとなりました。その一方で終戦間際に秋田県花岡鉱山で約千人の中国人労働者が虐待のなか一斉蜂起し鎮圧された「花岡事件」は進駐軍による戦犯裁判もあって後の鹿島組の謝罪賠償につながり、また1958年に北海道当別町の山の穴ぐらに潜んでいるのを発見された「劉連仁(リゥ・リェンレン)事件」に光が当たって、中国山東省から1944年華人労務者として北海道雨竜郡の炭鉱へ連行され1945年7月脱走、以後13年間終戦を知らないまま逃げ続けた悲劇が明るみに出ました。こうした中国についての見方は、それ以前筆者の中学校時代に当時の新聞をまねて「中国」を「中共」と書いたりした頃とは違っていました。鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)という話題作りだけの本のことを聞いて「虐殺なんて本当はなかったんやろ」と言ってくる生徒とも議論ができたものです。ただ、1999年に筆者は初めて中国に行って東北の平頂山万人坑などを観たのですが、関東軍司令部もヤマトホテルも満映撮影所も鞍山撫順の満鉄社員用住宅群も、みなそのまま残っていて、現地の中国人ガイドが言っていました。「日本人旅行者たくさん来られます。みな昔満洲にいてなつかしいという人たちです」。その言葉にあれっと思いました。日本人の大多数は、中国への侵略戦争時期について、なつかしい気持ちを持っている、反省の気持ちを持って中国へ行くわけではない。それは国交回復時に最後まで争われた「小異を残して大同を求める」(周恩来首相)と「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省」(田中首相)、責任はあいまいに「深く反省の意を表する」、戦争終結についてはただ客観的に「不正常な状態の終結」とされた政治的結果の、国民意識への正確な反映なのでしょう。1928年ビジネスで北京にいた筆者の伯父は、張作霖が馬車を連ねて北京駅へ向かい満洲へ撤退する時の様子を何度も話してくれ(奉天駅近くで河本大作を首謀者とする関東軍により爆殺される直前です)、また当時の中国で競争していた各国ビジネスマンたちのうち、比較するとドイツ人が一番優秀だったと繰り返し言っていました。そうした経済的つながりは戦前から戦後へとそのまま接続しているとも言えます。しかし当時は、「日中友好」の雰囲気が勝っていたのです。

 こうした中国についての意識は2000年代になって再び大きく変わりました。小泉純一郎首相2001年靖国神社参拝、福田康夫政権時2008年北京オリンピックに際しての日本の中の右翼の反中国キャンペーン(石原都知事の暴言、長野善光寺の聖火リレーへの非道な対応、中国は今に潰れるという右翼言論)、菅直人政権下2010年9月7日尖閣諸島中国漁船衝突事件、さらに野田佳彦政権下2012年4月16日石原都知事ワシントン・ヘリテージ財団シンポジウムで東京都の尖閣諸島買取り表明と9月日本政府による購入、国有化。一つ一つ検討したいこともありますが、今は略して、第二次安倍政権の下、2014年石原は「週刊現代」(8月9日号)に「今の野望」「支那と戦争して勝つこと」と述べ、シリアで捕まって一説には政府機関との関連が疑われる湯川遥菜は「シリアと支那を変えないといけない」「新疆ウイグル、チベット、内モンゴル(略)の独立(略)支那の解体ですね。(略)ある程度構想は完成しています」と述べ、後藤健二の名前も既に5月3日の「シリア内戦視察」記事からから繰り返し出ていて(湯川遥菜Blog)その密接な関係が伺われる状況です。銃器を持ってよその国に勝手に入る民間軍事会社の人間とそれと提携したカメラマン、そんなのがわが国に来たら、何と呼ぶのでしょうか。「特定秘密」の闇の中で中東での戦争、また中国との戦争が差し迫っている、国民がそこに引きずり込まれる、このことの覚悟を、子どもたちを前にした私たちも改めて心に刻まなければなりません。

 外務省のHPでも、1937年盧溝橋事件、日中全面戦争の発端についての説明で日本側の責任、張作霖爆殺、満鉄線爆破以来の謀略の数々については一言も触れられず、「当時の史料」に基づいて日本の当時の主張が並べられているだけで、その悪しき「実証主義」と「日本は悪くなかった」の底意に触れてぎょっとするのが実情です。日本政府の実態はそこまで来ています(実際にご覧下さい。天皇が2015年新年の「ご感想」で「この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています」と特筆したことの深長な意味、危機感も、考えあわされます)。「暴戻(ぼうれい)支那を膺懲(ようちょう)せよ」という当時の陸軍と新聞諸紙の言葉も再現してきている現状です。

 2010年に北京に旅行して実感した「日本はこの中国の高度経済成長期の膨大な市場、もう二度とない巨大なビジネスチャンスに自分から退いた、せっかくのそれまでの努力と蓄積にもかかわらず」の思いは、アメリカやドイツ、フランスなど諸国企業の活躍に比べてのものですが、冀東政権成立直後(1937年前に日本軍が北京周辺を中国から分離させた)渤海湾沿岸に無関税で殺到した戦前の三井物産などと同様、日本企業が時の政治に密着する情けなさは、日立やダイキン、伊藤忠の中国での活躍でも埋め合わせできるものではありません。退職後大阪教組を通じて中国で日本語教育に従事した方々のお話でも、ビジネスマン退職後に日本語を教えている人も多かったものの、その大部分が日中の歴史には関心がなく、日本の侵略など理解もしないというのを聞いて、当然と思いながらも暗い気持ちになります。その中国のGDPが、円安もあって日本の倍に達し、購買力平価でアメリカに並んだというのが現状(国民一人あたりはまた別ですが)なのはご存じの通りです。

 十年前まで、日本が朝鮮のことを馬鹿にする状況に腹を立てても、まさか中国のことまでもう一度「シナ、チャンコロ」と馬鹿にするようなことはしないだろう、と思っていましたが、今「嫌韓」とともに「嫌中」があふれる現状は笑うほかありません。こうした「嫌韓嫌中」史観こそが自分に自信が持てない私たちの「自虐」史観なのではないでしょうか。

 筆者はかつて授業で、必ず「日本の平和主義の根拠」について話すことにしていました。

 一つは日本国民の戦争に対する意識。「戦争の悲惨さ、平和の大切さ」という公式「平和教育」の内容と共に、本音の部分です。日本は連合国と戦争して負けた。中国、米英蘭の国々が相手だった。死ぬまで戦え、と言っておいて、結局最後まで戦わずに降参した。そして生き残った者、岸信介のような人間、の子孫が我々だ。生き残った者、岸信介のような人間、の子孫が、今度「お前は死ぬ方に入れ(先に死ね、自分たちは生き残るから)」と命令することは可能だろうか。それとも「今度は本当にみんな死ぬまで戦うか」。それならなぜ昭和20年に岸信介も多くの高級軍人も生き続け、今なお高額の軍人恩給をもらい続けているのか。岸信介は例示ですが、彼を貶めているわけではありません。歴史的事実に基づいて、北一輝の思想との関係を含めて、こうした日本の指導者の真実をきちんと尊重し認識し研究して子どもたちに正確に教える必要、前の戦争の終わり方そのものからして、300万人の死者たちの前で、そもそも彼らが「戦え」と命令することが可能だろうか、もう一度戦争できるか、ということを言っているのです。

 筆者の住む町の「呉春」という酒造家の先代は、谷崎潤一郎などとも交遊もあった有名な人でしたが、昭和20年ピョンヤンから復員し、『ヤマザキ、天皇を撃て』の奥崎謙三の本を周囲に薦め、自民党支持者ではあっても昭和天皇に対する考えは別でした。昭和天皇の戦争責任について話して右翼のテロで瀕死の重傷を負った元長崎市長の本島等さん(自民党員で隠れキリシタンの家系。2014年11月に亡くなった)のこと等、確かにそうした戦争の実際の体験者が姿を消しつつあるのは事実です。しかし歴史の真実は決してなくなったり、ごまかされたりすることはありません。

 もう一つは、アジアとの関係。日本はアメリカに負けました。そう国民は信じました。アメリカの物量作戦に、レーダーや原爆の科学技術に負けた。しかし、その後、日本がこてんぱんに負けたアメリカが、アジアで二回戦争をして、一度目朝鮮戦争では勝てずに引き分け(1950年冬一時は大敗北して北の山岳地帯から敗走した。今だに休戦会談中)、二度目ベトナム戦争では(枯れ葉剤ダイオキシンまでまき散らして)敗北撤退しました。日本が負けた相手アメリカと戦って、朝鮮は負けず、ベトナムは勝った。果たして万一、アメリカが勝てずに負けた相手、朝鮮と戦ったら、ベトナムと戦ったら、日本は勝てるか。そもそも日本は中国と戦って負けたのだ。泥沼の果てしない戦場にはまりこんだ100万の日本軍が点と線しか維持できず、イラクの米軍と同様に敗北して、さらに蒋介石総統の演説によって道徳的にも負けた。もう一回中国とも戦うか。アメリカと一緒なら勝てるだろうか。徹底的に戦ってみるか。あほか、やりたいやつだけやれ。だから私たちは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」することは、日本という国の生存のための方策なのだよ、と。

 「平和主義」は、理想などではなく、客観的にそれしかない真実です。いじめ問題の指導も同じですが、自分が強い方、優位に立って、弱い者いじめをしない、配慮して助けあおう、という表面的な道徳ではなく、強い者の陰に隠れて自分も強い側に立つと錯覚することをやめ、等身大の周囲を見渡して、私たち自身が攻撃される痛み、苦しみからどう逃れ、どう立ち上がるか、子どもたちが学校から、先生からさえ攻撃、弱い者いじめされる(点数で、試合の結果で、等々)ことから、どうやって「われらの安全と生存を保持」するのか、それが道徳教育の切実なテーマなのです。戦前の日本帝国は「悪いことをした」、日本人300万人殺した、そして中国1000万をはじめアジア太平洋地域の多くの人々を殺した。私たちはどのようにしてでも、再び同じことが起こらぬよう、自分たちを、子どもたちを護らなければなりません。

3 日教組と朝日新聞―戦後右翼の一貫した攻撃対象
 日教組教研集会に押しかける右翼街宣車の常套句、また自由主義史観の定型句は「戦後占領軍の洗脳、日教組や朝日新聞による日本の左傾化、かつての日本を否定するサヨク史観、反日的自虐的な歴史観」というものでした。しかし、先にも述べて思い出せばわかるように、1970年代に至るまで一般的な歴史意識は、実は「自由主義史観」とそれほど変わるものではなかった(教える人が、戦争帰り、戦前の教育を受けた人たちで、酒を飲めば軍歌が定番、子どもたちも戦地の「勇ましくおもしろい」話を期待した)のです。これに変化が生じたのは、1980年代のことだという点は、繰り返しません。

 中曽根康弘首相が1985年8月15日に靖国神社に公式参拝したことと、それに対する訴訟は、つい先年まで高校政治経済の教科書で憲法の「政経分離」を教える例題でした。中曽根内閣はその時一回だけで以後参拝をしない理由について、1986年官房長官談話で「公式参拝が日本による戦争の惨禍を蒙った近隣諸国民の日本に対する不信を招くため」としましたが、後に、靖国参拝が胡耀邦総書記の進退にも影響が出ると考えられた点も指摘されています(もちろんその背景には1978年靖国神社にA級戦犯が合祀されたことがあります)。1987年5月3日朝日新聞阪神支局襲撃事件(赤報隊事件)で小尻知博記者(29歳)が射殺された右翼テロ、翌1988年群馬県の中曽根康弘前首相事務所と島根県竹下登首相の実家にそれぞれ「靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った」「朝日を処罰した。つぎは貴殿」「靖国参拝をしなかったら処刑リストに名前をのせる」脅迫状が送られたこと、2006年8月加藤紘一(自民党元幹事長)自宅(山形)放火全焼事件に至る事態は、現代の日本政治のブラックさを伺わせ、すべて未解決事件です。警察は一体何をしているのでしょう。

 朝日新聞は、大阪朝日を母体とし、大正期には河上肇「貧乏物語」の連載でも知られるデモクラシーの旗手でしたが、1918年「白虹事件」で右翼の攻撃を受け、大阪朝日の不買運動、右翼団体黒龍会による大阪朝日新聞村山龍平社長襲撃(村山を裸にし電柱に縛りつけ首に「国賊」札をぶら下げる)事件、他の新聞雑誌の朝日攻撃キャンペーンによって遂に10月15日村山社長が退陣するに至った(これが、やがて戦争鼓吹新聞になっていく転機になった)経過は周知のことです。黒龍会は昭和の日本政治の黒幕、右翼テロの総元締め(表面には出ない)として有名ですが、こうした伝統がそのまま現代にまで連続し、表面は在特会や救う会として現象していると言えます。筆者のかつて在籍した大阪府立住吉高校には頭山満(とうやまみつる)の大きな書額が秘蔵されていて、なるほど黒龍会総帥の書ほどのお墨付きはありません。
 大阪市長とそれに追随する政治勢力は、公務員労働者の権利を、GHQ指令による「政令201号」をも踏み越えて無視抹殺し、裁判所で「憲法違反」の判決が出てもその動きを止めません。事実上日本国憲法以前に、戦前に戻っているのです。法も何もあるものか。教育公務員労働者への対応もその一環です。長く大阪市教育委員会で仕事をした友人に聞いても、大阪市政の根幹は(いわゆる「環状線の中」のことでしょうが)昭和初期からそれほど変わっていない、とのことです。松島新地の利権が市政の最大問題であった昭和初年、かつてのあの頃に戻ろうとしているかのようです。飛田新地の顧問弁護士が新しいカジノ利権の総元締めになる!
こうして、戦後右翼の攻撃対象であった日教組と朝日新聞は、その本拠地大阪でどのような結末を迎えるでしょうか。歴史は、それを真に克服しない限り繰り返されるのでしょうが、一度目は悲劇、しかし二度目は喜劇です。
4 朝鮮に関わる歴史観
  すでに述べたように、1980年代までの朝鮮に関わる私たちの歴史認識は、子どもたちの意識も同様ですが、一貫していました。それはかつての日本帝国から継承されたもののように思います。

 筆者は1960年代に大阪府立高校生でした。小さい頃から、喧嘩の最後の言葉は「チョーセン帰れ」でした。歴史大好き大学受験生の勉強の中でも朝鮮については王朝名だけ、教科書にも朝鮮の歴史としてわかるようには書かれておらず、何も知りませんでした。東洋史を専門に勉強するようになっても、朝鮮の歴史は何もない(『内藤湖南全集』のうち、他のすべての講義は何らかの形ですべて全集に収録されているのに、「朝鮮史」講義だけは欠落しています)、勉強する意味もないと思って、「歴史のある日本」に生まれたことを幸いに感じていました。今のネット右翼とまるで同じですね。「パッチギ」とイムジン河の歌の時代です。当時は大学でも朝鮮語を開講しているところはほとんどなく、天理大朝鮮語科の受講生の多くは公安関係の警察官でした。1972年に教員になって大阪市立西商業高校で多くの朝鮮人生徒と出会い、否応なく勉強することを迫られ、紀伊国屋に行っても手に入るのは金達寿『朝鮮』(岩波新書)と旗田巍『朝鮮史』(岩波全書)だけ、長い間朝鮮史を自信を持って教えるどころか、「朝鮮」という言葉さえすっと言うことが難しかったのです。(西商業高校では既に旗田巍を招いて教員研修会を開いていました。) 

 1981年に韓国に旅行し、1936年に旅順刑務所で獄死した申采浩(シン・チェホ)という歴史家の墓所を訪れました。そこまでたどり着く手だてを捜して、大田(テジョン)駅で案内してくれたボランティアの男性に尋ねました。片手にゴムの義手をはめ、朝鮮動乱で負傷したとのことでしたが、朝鮮の歴史は何も知らない、代わりに「神武綏靖…」と天皇の名前なら百二十四代憶えていると言っていました。同年齢の日本人はみな同じです。

 朝鮮の歴史は、日本人にとってだけではなく、本国の韓国人にとってさえ、実は当時まだほとんど空白のままだったことがわかります(筆者の言うことでは信用できないという人は、同様のことを菅野裕臣HP「1968-72年」で確認下さい。「世話になった新堂洞の旅館…そこのおばさんは,解放前に農村に育ったにしてはめずらしく普通学校を卒業しているため、日本語が上手だった。皇国臣民の誓詞も日本の天皇の名前も全部譜んじていたが、朝鮮の歴史も国王の名前もなにひとつ知らなかった」)。南北共にその歴史学は「いったん植民地時代の歴史を取り去った上で、新しい歴史を作り上げる途中」(1972年「高松塚古墳壁画」で来日した北の学者の言葉)であり、その基礎とされたのが申采浩らの民族史学でした。朝鮮人の歴史認識は、こうして「輝かしい祖国の歴史」を追求するものでしたが、しかし反面、植民地時代の日本の圧倒的な影響をもとに、それをどう克服するかが課題になっていたのです。

 1987年秋の大阪懐徳堂講座で金容沃(キム・ヨンオク)の講演を聴きました。当時高麗大学の先生で、民主化運動のさなか学生たちに最も人気のある思想家でした。その話のある集会には常に数千の学生が集まったということです。日本で言えば昔の吉本隆明みたいですね。当初の専門が中国の王船山「気」哲学だったということで、朝鮮の儒教と高麗、朝鮮王朝統一国家の近代前期(プレモダン)的性格、そこで儒教が果たした意味についての見解が話の中心でしたが、帰国後医学部に入り直す予定で東洋医学を研究するつもりだとの言葉に驚きました。金容沃は、実際その後東洋医学者として陰陽「太陽人、太陰人」などの概念を駆使する医学論でデビューする一方、膨大な『李朝実録』ハングル訳を組織する中心となって活動し、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の随員としてピョンヤンを訪問したことでも知られています。その『李朝実録』(朝鮮王朝の漢文による記録)ハングル訳こそが、「チャングムの誓い」から始まる韓国時代劇の基礎となり、日本天皇の系譜は暗記していても「イサン」など朝鮮の王様の名前など何も知らなかった韓国国民の歴史意識の土台を新しく作っていったのです。こうして、民主化を達成した南を含めて、朝鮮の歴史意識は発展を続けます。

 一方、日本の歴史意識は、その最先端では「戦争を担った者、加害者」意識に進みつつあり、また「アジア太平洋戦争」へ戦争をとらえ直しつつありましたが、1982年文科省教科書検定において日本軍の「華北に『侵略』」を「華北へ『進出』」と「改善勧告」し、朝鮮での朝鮮語「禁止」、神社参拝「強制」を否定した(第一次教科書問題)ことから、韓国、中国からの抗議によって検定基準の中に近隣諸国条項、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という条項の追加がなされるなど、一進一退が続きます。ただ、1981年夏日本のヒット映画は「連合艦隊」、一方韓国では日本の神社参拝強制に反対して獄死した朱基徹(チュ・ギチョル)牧師を主人公とする映画(舞台は「東洋のエルサレム」ピョンヤン)で、筆者は韓国でこの映画を偶々見て、全斗煥(チョン・ドファン)大統領の下にあってもその民衆意識のあまりの大きな懸隔に途方に暮れる思いがしました。しかもこれが翌年の日本での教科書検定問題で韓国世論が爆発する、その前提になったのです。当時雑誌『朝鮮研究』に黒田勝弘(サンケイ記者)がソウルにいながらこの映画も見ずに論評して教科書問題での韓国の反応を口先で論じているのに、唖然としましたが、しかし、この後日本の学校教科書は大幅に改善され、「侵略」や「加害」の視点が入るようになったのです。(反面、この朱基徹についての項目が日本の良識ある朝鮮を知る辞典などにも欠落していた問題は、別に考えなくてはいけません。)

 こうした中で、戦後民主主義のかろうじての到達点が、1993年8月4日慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話と1995年8月15日村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」の二つであったと考えられます。

 前者は、第二次世界大戦中の慰安所設置に「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」として、従軍慰安婦の「生活は強制的な状況の下での痛ましい」ものとして全体としての強制性を認め、「心身にわたり癒やしがたい傷を負われたすべての方々に対し心からおわびと反省の気持ち」を表したもの、後者は、日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」として、「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」を表明したものでした。1995年7月には女性のためのアジア平和国民基金(「アジア女性基金」)が設立され、日本政府はこの問題に「道義的な責任を果す」として、その運営経費、資金を拠出(48億円、2007年に解散)しました。しかし、それはまだリップサービスとしての「痛切な反省の意」、法的な意味としての「道義的責任」(法的責任ではなく)の性格を本質とし、その根底には朝鮮に対する他者認識が不十分であったことがあると思います。日本側は自分を優位な者として、下位のものに配慮してあげる、という隠れた姿勢が見えます。その根底にある潜在意識は、朝鮮というのは、歴史もない、後進的な未開社会の取るに足らない、自立できない土地、国とも言えない国だ、というものです。韓国と北朝鮮は別だ、というある種の朝鮮人側からの告発にもかかわらず、日本の固定観念は維持されます。ネット右翼と同じものです。これが、独立した朝鮮の歴史意識を形成した本国とは違って、在日朝鮮人に対してはまだ根本的に影響を及ぼし続けているのも事実です。

 この朝鮮認識はどこから来ているのでしょう。1965年日韓基本条約(併合条約は「もはや無効」)の後も日本では「1910~1945年の間朝鮮という国は存在しなかった」という認識が生き続け、2002年ピョンヤン宣言に至ったほか、2014年国連加盟国193中の日本国の承認国家191、残る2国は日本自身と朝鮮民主主義人民共和国、すなわち現在なお朝鮮半島北半については朝鮮、または韓国という国家の存在自体否定し続けている、そうした政治状況の反映にほかなりません。

 さらに日本の朝鮮植民地支配に関わる歴史認識、日本優位と朝鮮劣弱の固定観念は、もちろんその基礎としての政治的過去から来たものです。日本の常識では、1910年併合時の両国皇帝の詔書にも明記されたとおり、日本帝国皇帝(天皇)が韓国皇帝の申し出を承けて韓国を併合、韓国民を救った、のです。その結果、朝鮮人はありがたくも日本人となり、以後日本帝国は中国領、ロシア領の朝鮮人も日本人として扱うことになります。ロシア(のちソ連)在住者は「Korean in ethnicity, Japanese in citizenship」であり、金日成も日本人、朝鮮は日本帝国の属領、そこでは天皇に直隷する朝鮮総督の独裁政治、朝鮮銀行券(日銀券、日本の紙幣ではなく)による経済運営が行われ、朝銀と日銀の資金勘定によって富は日銀に移動しました。(表面的な総督府財政によって植民地支配の経済的収支を考えるのは、国家財政の基本的バランスシートを隠蔽したまま―企業なら粉飾決算になるのに、今もなお国家財政の貸借対照表がないままなのも有名な事実です―消費税増税のための方便として財政危機を論じるのと同様、眉唾です。)

 こうして、日本での常識に従って日本の朝鮮植民地支配の合法性を認めた時、歴史教育の上で欠落するものには、次のような事項が挙げられます。即ち、1独立戦争、2朝鮮の自主的発展の歴史。これの欠落は、1910~1945に朝鮮という国、朝鮮人なるものが存在しなかったことの正確な反映です。

 1の否定の結果は、一方的な強制連行、虐殺、奴隷化、朝鮮弱い。従って、その反面で 「朝鮮独立運動、青山里戦闘、金日成抗日パルチザンは歴史の捏造」。

 2の否定の結果は、朝鮮の歴史は属国、侵略されっぱなし。従って、その反面で「朝鮮は自分の都合のいいように歴史改竄、民族主義が強すぎる歴史」。

 こうして、ethnicityとしての朝鮮は受容されても、Nation-stateとしての朝鮮は欠落する。橿原の神武天皇陵は厳存するのに、ピョンヤン檀君陵は馬鹿にして冷笑する。日本人には「本名を強制している」と言わないのに在日朝鮮人には「本名を強制するのは」本人の自由に反する、あるいは、かわいそうだ!連合国(国連、と同一)のカイロ宣言(ポツダム宣言に継承)「朝鮮人民の奴隷状態からの解放」「朝鮮の独立」は表面受諾しても、一方日本自身による元来の「大東亜共栄圏」東南アジア「白人植民地化からの解放」にもかかわらず「朝鮮独立」は一顧もされず、他人事のまま。こうしたことを、冷静に、客観的に直視しなければなりません。

 もちろん、こうした現状を少しでも改善しようという努力は、草の根でも、政府機関でも、皇室ですら、さまざまになされてきました。1970年代末、辛基秀さんは私財を投じて朝鮮通信使絵巻を収集して映画を制作(「江戸時代の朝鮮通信使」1979年/48分/16mm。辛「歴史ドキュメンタリー江戸時代の朝鮮通信使」むくげ57・58合併号1979年3月掲載)、江戸時代の平和友好の日朝関係学習は、雨森芳洲の名と共に歴史教育の定番になりました。1984年全斗煥大統領来日は、朝鮮半島の独立国家元首が日本を公式訪問した最初という歴史上画期的な出来事でしたが、その際日本外務省は、かつてあった日本と朝鮮(韓国)の対等平等な外交関係の存在に確信が持てず、高官が大阪の辛基秀さんをわざわざ尋ねて江戸時代の「朝鮮通信使」絵巻を確認して帰ったということです。1990年の盧泰愚(ノ・テウ)大統領訪日の際には、天皇は晩餐会での言葉は「痛惜の念」に止めつつも、大統領に「韓国との相当なゆかり」を語って雅楽鑑賞に誘い、移動途中「私どもの家系を見ると、母方に韓国系の人物がいるようです」と話しました。翌年の新年会見で、天皇はサッカーW杯共催について問われ、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と語ったことは有名ですね。

5 朝鮮という国の過小評価は正しいか
 先ほど1910~1945に朝鮮という国、朝鮮人なるものが存在しなかった、と言いました。しかし間違ってはいけません。日本の立場ではその通りですし、また、帝国主義の時代の国際関係の中で、国際的にもある程度そうであったことも事実です。しかし、朝鮮人自身の立場からすれば、朝鮮という国は常に存在したし、自分たちが朝鮮人であることも自明のことでした。だからこそ、植民地統治に当たる日本人の中でも心ある人々、朝鮮を真に知る人は、「伝統ある別の国をまるまる支配する、滅ぼすことなどとても不可能だ」とその根本的な困難を認識していたのです。名前を奪い(創氏改名)、言葉を奪い(国語常用)、日本君主の祖先神信仰を強制(神社参拝)して、皇国臣民の誓いを暗唱させ、勤労挺身隊に、徴用に、そして皇軍兵士にしたてあげたその植民地支配の様相は、朝鮮人自身にも多くの「親日派」を生み、今に続く大きな悲劇の原因ともなったこと、またそこで日本人教育者が果たした役割は、朝鮮の子どもたちの親愛の情や周囲の友情にもかかわらず、冷静に客観的に評価されなければなりません。従軍慰安婦として辛酸をなめた人々を「帝国の慰安婦」として当時の感情や植民地(帝国)の現実から理解しようとする方法は、新しい視点などではなく、元来多くの人々の意識が否応なくそうであった当たり前の内容であって、そこで異を唱えたり自分の運命を客観視したりすれば直ちに排斥弾劾されたことでしょう。かつて、もう亡くなられた辛基秀先生や金東勲先生が講演の中で、戦争期には自分もまた皇国臣民、日本名であったことを話されたのを聴いて(考えるまでもなく当然のことなのですが)、何とも無惨な感情が湧いたものです。当時の朝鮮の人々の意識感情や植民地(帝国)の現実を、まるで今まで知らなかったかのように事新しく強調するのは、客観的で事実にもとづくように見えて、ものを言う方向が転倒しているのです。朝鮮人が皇国少年、皇国臣民、皇軍兵士であったこと、それは前提としての常識です。今さら「帝国の慰安婦」を強調して何をするというのでしょう。

 なにしろ、日本帝国の朝鮮植民地支配は1903年の伊藤博文・山県有朋会談で「朝鮮は如何なる困難に逢着するとも断じて手離さざる事に決定」(入江昭『日本の外交』中公新書P38)して以来、1945年8月9日直後の関東軍の行動―全力で南下して中朝国境山岳地帯での防衛戦を企図した、普通は一般人を棄てて逃げたように言われるが―、「通化事件」に至るまで、日本陸軍の中国政策とも切り離して考察することができないように思えます。それほど日本は朝鮮に最後まで執着し、ポツダム宣言受諾によってのみその放棄に至った。反面、北岡伸一の「名著」『日本陸軍と大陸政策1906-1918年』(1978年)は「本書では、朝鮮半島に対する政策は、大陸政策の範囲から原則として除外されている」(P6)と研究範囲を限定し、二度と「朝鮮半島に対する政策」研究に立ち返ることはなかった。朝鮮のことは、結局、無視してもかまわない。これが日本の「国際派」学者の研究の実態です。

 こうした日本帝国の植民地支配に応じて、大多数の日本人の常識が形成されます。日本人は朝鮮を過小評価し、とるにたらない、自立できない国で、朝鮮人は日本人になれることを大喜びすると信じるようになったのです。この日本人の一般的意識が在日朝鮮人の意識を大きく縛ってきたことは、先にも述べたとおりです。1970年代の学校では、先輩の先生が、卒業生がやっと日本人になれました、帰化できましたと大喜びで報告に来た、と言っていたものです。

 しかし、実は、日本の支配は朝鮮の最底辺までは浸透できず(だからこそ、「国語常用」「皇国臣民化」のかけ声が響いた)、『朝鮮総督府終政の記録』を見れば戦争末期でさえ「国語」を理解する人口比は20%程度に過ぎません。これこそが、朝鮮での徴兵制実施に伴って義務教育制度の必要性が痛感された理由です。しかし朝鮮の義務教育は、日本によっては遂に実施されずに終わりました。朝鮮人にとっては幸いなことでした。昨今、日本が朝鮮で教育制度普及に貢献したとよいことのように言う人もいますが、その教育の中身が重要です。数年前、朝鮮学校の子どもたちの無償化、補助金をなくして差別迫害するについて、すばらしい「日本の学校があるのだから、こちらに取り戻す」などと放言した知事(当時)がいました。「創氏改名は朝鮮人が望んだことだ」と歴史の信念を披瀝した元首相もいました。朝鮮人は日本人になる教育を大喜びするに違いない、朝鮮人は望んで日本の名前を名のるようになった、という信仰は今も続いている。現にそのように言う在日朝鮮人が日本人の目の前には多いこと、ゆえについ「自分の名前をどう名のるかはその人の自由」と思ってしまう、というように、結局創氏改名は日本でそのまま存続している。それをそのまま放置していては在日朝鮮人の子どもたちの真っ当な教育が難しい、このことを現場で痛感する中から、1970年代の「本名を呼び名のる」教育運動が始まったのです。

 さて、戦争末期の1944年、朝鮮での徴兵制実施による朝鮮人新兵は続々と前線に送られました。筆者は、当時陸軍少尉として「中支」にいた人から何度も聞かされたものです。配属された朝鮮人兵士たちは、最前線に出るやいなや、敵側に向けて走り、次々逃亡しました。日本兵はその背中に向けて、当るなと願いつつ(その人の言葉ですので本当かどうかわかりません)射撃したということです。張俊河の自伝にも同様の記述があります。重慶にも延安にも朝鮮独立軍があることが知られていたのです。朝鮮本国でも戦争末期に公然と「反戦ビラ」が貼られていたことは、尹敬洙さんがおっしゃっていました。日本本土では網走、府中刑務所組以外はすべて転向し、目につくような組織的抵抗運動は皆無であったのに対して、朝鮮では朴憲泳などの地下組織も存続していました。日本に強制連行されて北海道で炭坑労働に従事していた人々が、日本の終戦、朝鮮解放直後、日本戦後労働運動の先頭を切ったことも有名です。
 朝鮮総督府がポツダム宣言受諾(朝鮮の解放)後直ちに行ったことは、ソウル南山の朝鮮神宮はじめ神社神霊の昇神と御真影奉焼でした。それととともに、軍による資料焼却処分が行われました。日本人は自分たちの支配がどれほど正統性を得ていないか、よく知っていたということです。そして一夜にして、朝鮮全土は民族主義者と左翼が合作する人民委員会の支配にひっくり返ったのです。「国体護持」の日本本土とは様相が全く違います。

 表面上の日本支配のその下で、朝鮮という国、朝鮮人はあたりまえのこととして、存続していたのです。日本の中だけを見るのでなければ、朝鮮への過小評価を克服するのはたやすいことです。ただ、この問題の中国との関係では、日本の中の中国への過小評価とともに中国と朝鮮の関係も複雑に影を落としていることの考慮が必要ですし、朝鮮への過小評価という日本の意識の裏にある朝鮮への徹底的な敵意と恐怖の源泉本体としての朝鮮独立軍、第一次、第二次、第三次独立戦争も重要です。これらについては別稿に譲ります。特に関東大震災の際の朝鮮人虐殺については、従軍慰安婦問題と並んで右翼が攻撃の主要な対象にしています。しかし事実そのものが否定しようもないために、その論旨は、実際に朝鮮人が「暴動を、井戸に毒を」と悪いことをやって、殺されて当然、というところにまで行き着いています。1923年の戒厳軍や内務省、大杉栄を殺した甘粕正彦憲兵大尉の意識に同一化して、逆にその精神のあり方に光を当てています。彼らは朝鮮人の独立軍、独立運動に恐れおののいており、日本帝国中枢部は裕仁摂政宮の下で実質上の統帥権行使のないまま、参謀本部は帝都東京でも朝鮮独立軍との戦争を行っていると妄想していた。不逞鮮人を殺して何が悪い。現にシベリア出兵でも間島出兵でも日本軍、総督府はそうした戦争を続けていたのですから。

おわりに
 私たち日本人の中の、「北朝鮮」に対する、あるいは韓国に対する視点と感情は、その根っこのところで「在特会」ともつながっています。それはかつての日本帝国の朝鮮植民地支配が、日本自体の中できちんと清算されていないことからきています。中国についても、かつて日本帝国軍100万が中国に攻め込んでいた戦争の清算が、平和友好条約にもかかわらず、日本自身の中で完遂されていなかったことが現在の視点と感情を生んでいるといえます。戦争が迫っている今日、そうした破局に至らぬための知恵を、子どもたちの心の中の「平和の砦」として築かなくてはなりません。それが、自分たちの命を守る、お互いにみんなを護りあう、道徳教育であり、学校の中の民族学級、「本名を呼び名のる」教育こそがその根本にほかならないのです。

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