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歴史と在日朝鮮人教育

99夏/韓国歴史探訪ツァ−

秀吉の朝鮮侵略
(文禄・慶長の役)
の史実を学ぶ

<第2回>

大阪市外教平和友好ウオッチング委員会

宮木謙吉

  

 本誌161号に引き続き、「秀吉の侵略」を実地に証言する「倭城」の調査と、「降倭」の子孫の住む「友鹿洞(ウロクトン)」での交流記録をお届けします。

 日本の近世賤民制度が太閤政権によって創出されたとすれば、それと時を同じくする「秀吉の侵略」についての過不足のない歴史認識は、まだ十分には私たちのものになっていないのが実状ではないでしょうか。猿飛佐助や霧隠才蔵の時代も今の子どもたちには縁遠いものでしょう。韓国でも、倭城の存在自体一般にはよくは知られていません。その実像から、すこしでも当時の歴史の真実に迫りたいと思います。(編集委員会)


4 蔚山城址は、都市の中の公園に

都市の中の公園に変身した蔚山城址。わずかに残る石組みの残骸。

 蔚山(ウルサン)は工業都市だけあって、海辺にはコンビナ−トも見える。市内もにぎやかで交通量も多く道路幅も広い。太和江を超えると、都市の風景のなかに雑木でおおわれた高台が見えた。平坦な市街地に、ぽっかりりと小さな森がせりあがったようだ。

 「白鶴1街」の標識の横に、階段がある。

 全体的に城山公園という感じである。急な階段を上ると左右にぐるりと回廊状に遊歩道が延びている。また急な階段を上ると高台の中腹の広場にでる。そこには売店があって、市民がお茶を飲んだり朝鮮将棋に興じている。広場では、子ども達が遊んでいる。

 そこから、また階段が続いておそらく天守部分に続くのであろうが、今はまったくその面影はない。階段が途切れるとゆるやかな坂道がずっとのびている。左右には生け垣が作られている。生け垣の向こうにわずかに石垣の一部であったことを示す石が放置されている。天守跡も広場になっていて木々の間から、太和江や市内が展望できる。公園全体は、蔚山城址を利用しているようだが、石垣の面影を残すエリアは公園内にはなかった。

 ハングルで書かれた案内板があった。一部、単語を漢字で説明をしている。丁酉倭乱の時、倭将加藤清正が籠城し、朝鮮・明軍が総攻撃をしたとある。食料不足の為、日本軍の人馬殺傷等が行われたという「蔚山城の攻防戦」が書かれているようだ。 

 倭城の中では、有名な蔚山城であったが、市街地にあるためか、その面影はなかった。案内板がないと、ここが蔚山城址であることも定かではないかもしれない。船着場があった太和江からかなり離れていることを考えると城の縄張りも大幅に縮小されてしまったようだ。

 城の東南の城門下に船入り址から、日本軍は船に乗り後退をしていったという。西生浦城の巨大な石垣を見学した直後でもあったので、時代の流れを感じざるをえない。今では、都市部の中にあって、倭城の痕跡を探すのも一苦労である。しかし、蔚山市民の木々におおわれた休息の場となっている方がよっぽと良いのかもしれない。入口の階段の横には、ライオンの像があった。虎退治をした加藤清正に対する当てつけだろうか。蔚山城は、300年をへて、すっかり変貌してしまった。当たり前のことであり、これでいいのだろうと思う。石垣の石は、公園の盛土の支えとしてちゃんと活用されていた。

 1日目の午後の倭城ウォッチングは無事に終了した。話題は何といっても、西生浦城の城壁のことに尽きた。

 本丸の頂上を見上げたたときはぞっとしたが、それでも集団の力で、全員登頂することができた。本丸跡の展望は、360度のパノラマが開けていた。城の縄張りを考えると、数万の日本軍の駐留も可能なスペ−スである。

 蔚山城の攻防戦には、この城から加藤清正が側近を連れて、東海に出て海岸ぞいに船で蔚山湾に進み太和江を上って、蔚山城に入っている。行程は30キロほどである。三倭城は海路で連結されていることもわかった。それほど海を意識して築城されている。倭城が、海岸につくられてのは逃亡しやすいという説が強いが、海路を利用して互いに連結しやすいという利点もあったのであろう。

 築城時に必要な石は、現地で調達したと言われる。また、現地の民衆を徴用したが、日本から連れてきた武士や農民兵も、石積みの作業には酷使されている。

 蔚山を出て、夕闇のなかを慶州へと向かう。翌朝、朝8時から慶州観光メッカ、仏国寺、古墳公園をまわって慶州国立博物館を見学した。早朝の仏国寺は、人影もなく、ひっそりと落ちついた寺歩きができた。「仏の国」の静けさにひたれたようだ。奥にある観音堂の左下にあった仏国寺舎利塔は、植民地時代東京上野公園の料理屋にあったものを、ここに戻したそうである。秀吉の朝鮮侵略時には、寺の木造部分は全焼し、今も石塔や石壇には黒こげの痕が残っている。2回にわたる日本の侵略の被害にあったのが、この仏国寺である。寺内を一巡して見学終了。何度も来ているが飽きることはない。さすがである。

5 慶州から大邱、友鹿洞へ

 慶州から大邱市内に入り、12キロ東南の友鹿里へと向かう。友鹿里の標識を右に曲がると友鹿洞はもうすぐだ。広くなった道路をゆっくりとバスは走る。やがて川ぞいの道が現れると、友鹿書院の前に出た。道路には「日本國大阪市慕夏堂(沙也可)研究會員鹿洞書院訪問」の横断幕が掲げられていた。参加者から「わあっ!」と思わず歓声が。「あそこまでしなくてもいのに」という声も。市民主体の民際交流が、わたし達のモット−である。普段着の交流をかねがね願っているのだが………。それにしても、村を挙げての歓迎である。

99年6月に開館した「忠節館」での交流風景。
横断幕がやけにまぶしい!

 さっそく、昨年6月に開館した「忠節館」に招かれた。これは、日韓友好を願う友鹿洞基金ともいうべき募金活動によって建てられたもので、この建物の見学が今回のツア−の目的の一つでもあった。右手には、図書室や沙也可に関する資料の展示室となっていて、左奥には大きなテ−ブルを中心にソファ−、椅子も並べられている。沙也可の業績を記した屏風が並べられている。歓迎の横断幕が掲げられていた。5月12日に来阪した「沙也可」親族会会長14代の金在錫氏、慕夏堂思想研究会の副会長崔錫大氏、沙也可直系11代の金氏らをはじめ村の長老たちが出迎えてくれた。

 歓迎式がはじまった。

 5月12日の友鹿洞代表団の来阪を機に、大阪市においても「沙也可研究会」が発足する運びとなったわけだが、今回はその「沙也可研究会」の第1回目の訪問に対して“感嘆の極み”であるという熱烈歓迎の言葉が金会長から冒頭述べられた。韓国の中3の道徳の教科書に沙也可が登場し、歴史の表舞台に登場したことも報告された。沙也可を架け橋として日韓親善の村づくりへの意欲や計画についても語られた。第4次国土開発計画に友鹿洞が指定されるように大邱市と共に国へも強く働きかけているとのこと。友鹿洞事業の説明のために、今年5月、東京、名古屋、新城、岡崎、豊橋、近江八幡、広島、大阪の8都市を訪問したことも報告があった。友鹿洞が指定されれば、専門機関にマスタ−プランを作成させ、本格的な日韓友好の村づくりと歴史研究のための活動の充実が期待されるとしている。

 これらの活動の土台は、沙也可研究会の活動であり、現在、大阪をはじめ東京、近江八幡、名古屋、岡崎、豊橋、新城、広島の8ケ所に沙也可研究会も設立されている。沙也可をつうじて、国際交流の活動が活発になることはすぱらしいことだが、友鹿洞に大型プロジェクトが導入されることで、自然の景観が大きく変えられることには懸念を感じてしまう。

 11月には、沙也可の国際シンポジウムの開催が計画されている。朝鮮通信使の縁地連の交流会のように定着し、それ以上に国際的な研究会になるであろう。森先生(今回のツア−の団長)からも挨拶が行われた。沙也可研究会の第一回友鹿洞訪問が実現できたことと歓迎会に対する礼が述べられた。

 交流会のあと、「友鹿祀」へ案内され沙也可の霊に参拝をした。春、秋のチェサ(祭祀)はここで行われる。ここへ入れるのも貴重な体験だ。最後に、金会長から、大阪での歓待のお礼と次回の訪問時には歓待をしたいという別れの挨拶をバスの中で受けて友鹿洞をあとにした。訪問のたびに、友鹿洞には沙也可ゆかりの施設やその周辺の整備が進んでいるようだ。

「忠節館」前で、見送ってくれたハラボジ達。みな海を渡った“降倭”将 沙也可の子孫であった。

 バスは大邱に着いた。夕食までの間ホテル近くの「西門」市場にむかった道すがら、ビルの谷間には植民地時代に建てられた日本人家屋が見える。市場に足を踏み入れると、農産物・海産物、衣類や日用雑貨の店がズラリと並んでいる。ペットの店もあった。屋台ももたくさん出ていた。市場の原点のような賑わいだ。翌朝の散歩で大邱駅に行ったが、駅前の地下鉄工事はまだ続いていた。歩くたびに感じるが、大邱は大きな街である。

6 大邱から南原へ

 3日目、ソウルオリンピックの時にできた高速道路で南原へ向かう。洛東江をこえて高霊、居昌、咸陽の都市をへて南原に向かう。海印寺の標識もあった。途中の大雨で、道路わきにはスリップ事故の車が何台かあった。

 南原市に入ったころには、雨はすっかり止んでいた。高速をおりると前方に「万人義塚」の標識が見えた。右折すると、広い駐車場をそなえた「万人義塚」資料館に到着。セミの声がすごい。池尚浩先生が友人と待っててくれた。資料館の館長からも、歓迎の挨拶があった。さっそく、実際に調査された倭城の地図を広げて説明をしてくれた。18年前に、自分の目と足でまわられた30数カ所の倭城であった。

 まずは、順天城。ここでの攻防戦を最後に日本軍が撤退してる。また、一番激しい戦闘が行われた蔚山城についてふれられた。次に、是非行ってほしいという泗川城。この城跡の近くに、京都の耳塚の犠牲者の慰霊碑がたてられている。今回のツァ−の見学ポイントの一つである。石は運んだのだが築城まではいたらず、石のみをのこしている麗水倭城や山の上にに築かれた最大の倭城である熊川城などを説明された。地図に見入るこちらの気持ちを察してかその手書きの地図を贈呈してくれた。よく見ると、秀吉の朝鮮侵略の「爪痕」の象徴である倭城が記されている。今回の見学予定の倭城も記されていた。                                     

7 万人義塚記念館

 小規模ながら、南原城の攻防戦の資料が展示された端正な記念館である。入口の正面には「倭軍南原城侵攻作戦図」が展示してある。この南原城を包囲する日本軍の軍勢配置図は、川上久国が描いたものだと伝えられる。鹿児島県立図書館に所蔵されていたのを李正文氏が家門のル−ツを探る一念で60余年をかけて捜しだしたものであるという。彼は当時の朝鮮軍の将軍李福男の11代の子孫にあたる。その彼と韓国名誉総領事の肩書を持つ沈壽官さんとの共同寄贈によってここに展示されている。

 池先生から、この時に日本に連行された李福男の親族に乃木大将や静子夫人もル−ツをもち、さらに李福男が二人の息子を託した中国人も日本に連行されたが、彼の孫が武林唯七と名のって四十七士の一員として活躍したという話を聞くことができた。武林という名は、中国の淅江省杭州府武林からきたというのもうなづける。NHKの「元禄繚乱」の見方も変わるかもしれない。

 とにかく、池先生の物知りには感服する。彼は、日朝の関係史のドキュメント映像作家でもあるし、金達壽の「日本の中の朝鮮」の取材旅行にも同行しているという著名な研究家である。特に、映像資料の制作にあたっては、加藤清正お膝元の熊本城近くの藤崎八幡宮の「ぼした祭り」のル−ツを「朝鮮侵略」に求め、鋭くその問題点を指摘したことは記憶に新しい。なお現在、藤崎宮の「ぼした祭り」は、単に“礼祭”となっているようである。

 南原の万人義塚記念館に入ると壁面の1597年の戦況図が目を引く。

 当時、朝鮮・中国軍は山城である蚊龍山城にたてこもっていたが、騎馬戦を得意とする中国軍リ−ダ−陽元の命により、平城である南原城へと移動して戦うことになった。日本軍の包囲網の中、威風堂々とした行軍図が掲示されている。今回、蚊龍山城の入口あたりを見学したが、たいへん堅固でしかも規模の大きい山城であるという印象を受けた。何故、平城での戦いを選択したのか疑問に思うが、平地での戦いを指示した当の陽元は戦闘を放棄して逃亡し、民衆に殺されたというから、とにかく作戦自体にもすっきりしないものがある。

 各戦況図には、勇猛に戦う朝鮮軍が描かれている。

 宇喜多秀家を司令官とする軍勢5万6千八百人は、海陸から全羅北道ここ南原をめざした。島津義弘・小西行長・伊藤祐兵・藤堂高虎・加藤嘉明・毛利吉成・宗義智・太田一吉・竹中隆重・生駒一正らを将とした大軍である。1597(慶長2)年7月28日に釜山を出発し、泗川で島津軍、昆陽で伊藤・毛利・蜂須賀軍が合流、さらに水軍の加藤・脇坂・藤堂・来島の兵も加わって、8月12日南原に至った。日本の戦国時代を勝ち抜いたプロ軍団が南原に総集結したわけである。

 南原城には、明軍、朝鮮軍各千名が駐屯し農民たちもたてこもっていた。

 13日、日本軍は一斉に攻撃を開始。南面から宇喜多・藤堂・太田軍、西面から小西・宗・脇坂・竹中軍・北面から加藤・島津軍、東面からは蜂須賀・毛利・生駒軍が攻めたてた。日本軍は草穀・土石で濠を埋め、縄梯子で登城を図り、高い矢倉を造って鉄砲を射ち込んだ。攻戦4日目に南原城は陥落、朝鮮軍は全滅。以後、全州以北の朝鮮の守りは瓦解することとなる。

 池先生の話では南原城で殺された人々は、慶念の日記、鼻取りの受け取り状からして4千人くらいであるという。また、ある義兵は死んだ時の死体捜しの目印として刺青を妻に彫らせ、死体が見つからない時には、刺青を彫るときの血の着いた肌着を墓に納めるように言い残して戦いにのぞんだという。南原城の戦いをきっかけとして日本でも刺青がはやったのではないかとのことである。   


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