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勝山中学からのたより(第4回)
 「ぼくも、キムチャンヨンでいくわ」

乾 啓子(大阪市立勝山中学校)

 地域交流がどんなに盛んになっても、民族の集まりの場へと誘うほとんどのきっかけは、教師が原学級でひとりひとりの韓国・朝鮮人の子たちに声をかけることから始まる。参加した子どもは、民族にふれることでなにかを感じ、何かを始めようとする。
 生野区東陽中学校では、少数在籍で現在民族クラブは設置されていないが、日本人教師の励ましもあって2003年の「オリニマダン」に4人の生徒が参加し、民族の友だちとともに楽器を演奏する楽しさを経験した。その続きとして秋の「東部子ども民族文化祭」への参加も希望したため、玉津中学校の民族クラブとともにサムルノリを練習して2校合同の発表となった。
そして、このような民族の場で学び成長したことをやっぱり最終的には、自分のいる原学級で出してほしいと思っている。そのとき、まわりの日本人の子たちも含めて、ともに成長できうるし、本当の意味で地域を変えることにつながっていくと思う。私の目標は、原学級で本名の名乗れる子どもになってほしいということである。


 現在私の在籍する勝山中学校は、外国籍生徒の在籍率は約15%ではあるが、40人ほどという数の少なさもあって、思うような活発な取り組みができないときもある。昨年度の勝山中学校の民族クラブには、年度の終わりの頃は約20人の生徒が関わっていたが、一学期の活動はせいぜい毎週7、8人ぐらいであった。その中に二年生のイム・リミがいた。日本籍なので、入学したときにはルーツを持っていることがわからなかったが、学年の集中実践の取り組みをする中で思いのこもった文を書いていたので、民族クラブに誘うことにした。韓国人の父親からいろいろ教えてもらっているようで、コリアタウンフィールドワークで聞かせていただいた在日一世のコ・ボンジョン(高奉淀)ソンセンニムのお話にも強い感動を受け、コーディネイターだったキム・グァンミン(金光敏)ソンセンニムの「家族がなぜ日本にやってきたか聞いてみたら」という設問にも素直に答えようとしていた。
 五月の「オリニ・ウンドンフェ」に誘うと、友だちといっしょに参加するという。ただし、昼ご飯を作りに帰らねばならないので、途中で抜けたいと言った。韓国人の父も日本人の母も忙しくて、小さな妹のめんどうは彼女がみていたのだ。一年の時は民族クラブに参加していなかった彼女は、このときの「オリニウンドンフェ」ではじめて他校の中学生達が演じるプンムルを見たのだった。その後も積極的に民族クラブに参加したが、家の都合ということでよく早く帰ったりした。実は、日本人の母は、民族クラブに行くことは反対で、母親には黙って参加していたとわかった。
 夏の「オリニマダン」が近づき、参加者を集約しているとき、彼女が「今からお父さんに電話するから、先生、お父さんに頼んで。お父さんやったらわかってくれるから」と言う。電話に出ると、「家の方も大変なのでリミには家の手伝いをしてほしいんですが。うーん。わかりました。何とかしましょう」ということだった。


 「オリニマダン」の当日、集合時間に彼女は来なかった。家に電話すると、「お母さんがまだ家にいるので出かけられない」という。後から遅れて来てもいいから、と言うことで、会場の場所を知らない彼女に私の携帯番号を教えた。昼近くなって、彼女は会場の小学校にやってきた。心配した父親と祖父が会場の場所を探して連れてきてくれたのだ。この日、リミは初めて民族衣装を着て友だち徒と共にチャンゴをたたき、プンムルを演じた。 秋の校内発表会が近づいたとき、舞台で作文発表をする生徒を募った。踊りや楽器演奏発表の合間に、毎年何人かの民族クラブの生徒が自分の思いを読み上げる。この年はプンムルをすることになっていた。彼女は読みたいという。書き上げてきた文は、彼女の民族を大切にしたい気持と、心配する母への思いがこもっていた。「これを校内発表するからには、お母さんに民族クラブに出ることを話さなくてはならないよ」と言う私に、リミは「やってみる」と答えた。


 数日後、聞いてみると、「リミが出るのなら、お母さんも見に行かなければね」という母の返事だったと言う。読み上げる文は、私も語句の細かなことで少し添削したが、発表前日に見たリミの文はさらに添削されていた。父親が読んで直してくれたのだと言う。発表が終わったとき、リミの母親が近づいてきて、リミに声をかけた。リミはわっと泣き出した。止まらなかった。ソンセンニムがもらい泣きをした。


 三学期になり、それまであまり学習に熱心でなかったリミが、勉強に取り組み始めた。小テストをしても、満点とまではいかないが、努力のあとが見えてきた。卒業式も終えて、二年生の日もあと数日というとき、私はやっとのことで、私の授業だけでも本名で呼ばれないかと二年生の四人に問いかけた。教室には友だちの本名を受け入れてくれそうな雰囲気ができつつあった。それでもずっと躊躇していた。それは、「本名でどう?」と持ちかけたとき、本人たちにNOと言われたり、「うーん」としりごみされると、私自身がくじけそうになるからだ。ただ、このときは、先輩が本名で卒業したこともあって、彼女たちの気持ちは高揚していた。リミとパク・ソンジがOKだった。リミのクラスで、リミが民族名で私の授業を受けることになったと言ったとき、子どもたちは静かに聞いていた。ただ一人の男子生徒を除いて。ルーツを持っているが、スポーツクラブが忙しくて、それまでに料理会にしか参加したことのない生徒であった。後で呼んで話した。「静かに聞いてくれない子がいたということで、リミはちょっと不安に思っているかも知れない。これから、支えてあげてな」と話すと、ちょっと考えた後、「ぼくの本名、キム・チャンソンっていうらしいんや。ぼくもこれからそれで行くわ」と言った。彼の民族としての心意気を表す言葉だった。原学級の中で少し変化の兆しが見えてきた。


*これは、去る6月12日に大阪府在日外国人教育研究協議会第12回研究集会(三島大会)分科会(吹田市立第二小)で発表された報告、「ぼくも、キムチャンヨンでいくわ」―生野・東成の地域交流活動を中心にした取り組み―、の一部です。

 ここでは前半部分の大阪市外教東部ブロックを中心にした「オリニマダン」、民族講師会主催の「オリニウンドンフェ」「民族サマーキャンプ」の経過を割愛しました。学年に韓国・朝鮮籍の生徒が約2割、人数で100人以上もいる学校であっても、朝鮮・韓国の話は「ある種のタブー」であり「ふれてはいけない話題」だったという1980年代初めの様子、何年も懸案として延ばされてきて「今やらねば、いつやるんや!」というひとりの教師の発言で踏み切られることになった1992年の第一回「オリニマダン」、各学校ごとに会場まで民族衣装を着て学期をたたきながら路上パレードをして集まってくるところは圧巻である、という「東部子ども民族文化祭」の様子など、ビデオをまじえた発表は、再度11月27・28日の全同教大阪大会で行われる予定だと聞いています。(編集委員会)

       
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