朝鮮通信使の見た大阪

江戸時代に淀川を上下した三十石船。当時としては大船だったが、朝鮮通信使の乗った川御座船はこれよりもずっと大きい。
熱烈歓迎を受けた朝鮮通信使 豊臣氏を倒して成立した徳川幕府の最初の外交課題は、朝鮮との国交回復であった。朝鮮貿易を命綱とする対馬藩の必死の努力がみのって、江戸時代には、朝鮮国王、徳川将軍の代がかわるたびに、相互に使節の交換がなされるようになった。秀吉の侵略の記憶がなまなましい朝鮮側は、日本の使節を釜山(プサン)より奥に入れなかったが、「通信使」とよばれた朝鮮の使節は、二百日以上にも及ぶ長期の日程で江戸まで往復した。さらに現代人を驚かせるのは、道中での日本側の盛大な歓迎ぶりである。一七一九年の吉宗襲職の時の兵庫での接待記録によれば、四百名を超える通信使一行を歓迎するために動員された船は七六五隻、接待などに動員された人は、尼崎藩だけでも一万人を超えたという。そして、一行は大阪で金箔をほどこされた豪華な川船に乗りかえて、京都へと向かっていったのである。この時の通信使には、申維翰(シン・ユハン)という人物が記録を担当する製述官として加わり、『海游録』という紀行文を残している。これによって、私たちは、通信使一行を迎えた日本人の熱狂ぶりを知ることができる。

 『海游録』において、申維翰は大阪の繁栄ぶりを率直にたたえ、一行の行列を見に集まってきた人々の衣装のきらびやかさに驚いている。めったに外国人を見ることのなかった当時の日本人にとってこの日は晴れの舞台であり、精一杯着飾ってきたのだろう。しかし、それ以上に驚いたのは、やはり沿道の人々のほうだった。通信使一行だけでも大変な数なのに、護衛と接待のためについた日本側の人員がさらに延々と続くのである。通信使の到来は、徳川幕府にとっても、権威を強く印象づける絶好の機会であった。そして、各藩に多大な負担をかけることで、参勤交代と同様の効果を期待したのである。

インプレス・グループの市販素材集より
 岡山県牛窓(現瀬戸内市)の唐子踊り。朝鮮通信使の風俗をまねたと言う。

大阪文士との交流 通信使一行の行く所ならどこでも、宿舎には学問や風雅の道を志す人々がおしかけ、通信使一行との面会を求めた。中でも、大阪は他の地方の何倍もこのような人々が多かったと申維翰は書き留めている。中には護衛の対馬藩士にわいろを贈ってまで取り次ぎを求めた者もいたらしい。自作の詩の講評を求める者、子どもの命名を頼む者、朝鮮事情についてあれこれ聞く者、こういった人々に応対し、申維翰たちはしばしば眠れぬまま朝を迎えたようである。

 宿舎での会話は筆談で行われたが、漢文の実力は、やはり朝鮮側のほうが格段に上であった。朝鮮の役人は漢文の試験で選ばれ、日常的に漢文を用いていたのだから無理もない。これに対して、日本の官職はすべて世襲で決まる。これでは有能の士が埋もれ、無能の者がのさばるではないか、と申維翰は強い批判を加えている。李氏朝鮮は朱子学を国教としていた。これは、中国の明王朝にならったものだったが、中国にツングース系の北方民族、満州人の王朝である清が成立してからは、朝鮮では朱子学の本場はこちらだという強い自負が生まれていた。そして、現実に日本では、朱子学の先進地として、朝鮮の評価はきわめて高かったのである。

日本朱子学の成立 朱子学は身分秩序を重視する学問であった。下剋上の時代を生き、底辺からのし上がった秀吉はこれに何の関心も持たなかったが、幕府を樹立した家康は安定した国内支配をするための精神的な支えとして、朱子学に強い関心を示し、日本朱子学の開祖である藤原惺窩(ふじわらせいか)を招いて講義を受けたりした。惺窩はもと禅宗の僧であったが、秀吉の侵略によって日本に伝わった朝鮮本を読んで仏教を捨て、日本に連行されてきた朝鮮の学者姜沆(カン・ハン)に親しく教えを受けた人物である。家康の知恵袋となった林羅山はこの惺窩の弟子であり、その子孫は代々徳川家に仕え、日本朱子学の大御所として君臨した。日本朱子学は成立当初から朝鮮との関わりが深く、とりわけ十六世紀の大儒李退渓(イ・テゲ)の強い影響を受けていた。大阪の文士たちから、「退渓先生の郷里は何郡か」とか、「子孫はどんな役職についているのか」とか、「生前の趣味は何か」などという質問ぜめにあったことを、申維翰は、いささかうんざりしたような調子で書き残している。

理想を示す国だった朝鮮 江戸時代の日本は、大小の藩から成る連邦国家であった。江戸の将軍は鎌倉幕府や室町幕府の将軍よりはるかに強い権限を持つようになったが、各地の政治の大半は藩に委ねられ、将軍の地位は理念的にはやはり諸大名と同格であった。これに対し朝鮮では、辺境の地にいたるまでソウルから送られる役人の手で政治が行われていた。一定の任期で任地におもむく役人たちが在任中に私腹を肥やそうとひどい搾取をしたり、社会の活力を奪ったり、このような体制にも大きな欠陥はあった。しかし、長期の支配が実現したことは確かである。徳川幕府の成立までに李氏朝鮮はすでに二百年も続いており、幕府が倒れた時にもまだ健在だったのである。徳川幕府にとって、朝鮮は一つの理想を示す国であり、通信使をあれほど歓迎した理由もここにあった。

 江戸からの帰路、再び大阪に立ち寄った申維翰は、大阪の出版文化がさかんで、『退渓集』など朝鮮人の著作も多いことに改めて驚いている。しかし、その一方で、秀吉の侵略前年の日本紀行である金誠一(キム・ソンイル)の『海槎録(かいさろく)』や姜沆の『看羊録』、侵略の経験をふまえ後世への警告として書かれた柳成龍(ユ・ソンヨン)の『懲毖録(ちょうひろく)』といった本までが出版されていることには心を痛めている。「賊のことを調べて、それを賊に報告するようなものではないか」というのである。朝鮮が日本と交渉をもった理由には、二度と侵略を受けまいとする警戒心もあったのである。

背景は、江戸に着いた朝鮮通信使一行と見物人

     



inserted by FC2 system