青 丘 笑 話(第一回)  
印藤 和寛
    はじめに    朝鮮独立戦争の隠蔽

 友人の一人に、テリー伊藤に勝るとも劣らぬ「北朝鮮おたく」がいます。盆や正月の休みに話を聞くことがあり、今回その内容の一部をまとめてみることにしました。「むくげ」の読者には周知のことかも知れませんが、「お笑い」の種にでもなればと思います。(伊藤輝男の書いているものが示すように、北朝鮮が、ではなく、実は北朝鮮を、ひいては、朝鮮を見る私たちの視線こそがが「お笑い」なのだということは言うまでもありません。)

  この「お笑い」が私たちの歴史認識と関わるところでは、朝鮮独立運動、ひいては朝鮮そのものの過小評価と、朝鮮「独立戦争」をないものにしてしまう見方があります。
 1923年関東大震災の時の朝鮮人虐殺がなぜ起こったか。「流言飛語」が原因だという見方も、それを権力者が自分たちの支配維持のためにあえて流したという見方も、それぞれ正しいには違いないでしょうが、まだ卑小な見解に過ぎないのではないでしょうか。その当時の日本帝国の全体状況を正しく把握する必要があります。「差別意識」も、結果であって原因ではないはずです。
 当時、日本帝国は、戒厳令下で、朝鮮人全体を敵と見なしました。なぜそうせざるをえなかったのだろうか。それは、現に、朝鮮との間で、独立か支配か、革命か反革命かの戦争が展開されていたからなのです。

 1920年10月、朝鮮独立軍の祖国進攻作戦が目前に迫り、朝鮮国内の革命前夜(二重権力)状況が生まれていました。朝鮮北部を中心に、首都でさえ朝鮮人官吏、警官の集団欠勤、サボタージュが発生していました。上海臨時政府の聯通制を軸として、独立軍側の働きかけは、深く広く及んでいました。

 日本帝国軍がこの朝鮮独立軍根拠地を攻撃しようとして発動したのが「間島出兵」でした。日本軍の「シベリア出兵」1920年4月以後の目的も、「朝鮮独立運動」の根絶にしぼって閣議決定されました。日本帝国の朝鮮軍、シベリア派遣軍、関東軍と朝鮮独立軍が対峙し、日本は朝鮮との国民対国民の戦争を遂行しつつあったのです。

 しかし、この戦争の実状は、朝鮮内部での報道管制、日本内地でのマスコミの動向と軍による秘密維持によって、日本帝国の権力中枢と三好達治らごく一部の日本人を除いては、認識すらされないまま、今日まで明らかにされることがありませんでした。その上、中国と革命内戦下のロシア、コミンテルン(共産主義)と民族主義の反共陣営、戦後の冷戦構造によって、歴史の継承そのものが分断され、言語(ロシア語、朝鮮語、中国語、日本語)とともにバラバラにされてしまいます。だいたい、関東大震災後の帝都東京で発生した朝鮮人や中国人の虐殺の事実も、1960年代の歴史大好き高校生でさえ知る機会がないほどだったのですから。

 1930年代の、中国共産党指揮下の朝鮮人パルチザン部隊による独立戦争、「金日成の抗日闘争」は、この1920年代初めの独立戦争をこそ引き継いだものなのです。

 (1908年義兵戦争以来のこの独立戦争の内容、1920年の青山里戦闘の意義について、従来の最高の研究成果である金静美さんの視点の不十分さを克服して、日本における朝鮮人差別の根源に迫ります。)  

 1 「檀君の遺骨発掘」「固有民族文字の発見」は、なにを意味するか。1995年

  1993年9月28日平壌(ピョンヤン)発朝鮮中央通信のニュースは、朝日新聞でも報道された。日本では、10月11日付「朝鮮時報」に、朝鮮社会科学院の檀君陵発掘調査報告が掲載されている。平壌東郊の檀君陵と伝承されてきた高句麗様式の石室封土墳を発掘して、三つの棺台から得た二体分の骨のうち、男性のものと想定される骨の電子常磁性共鳴法による年代測定値が5000年あまり前のものと出た、というのである。

これをもとにして、朝鮮社会科学院(ここは金日成(キム・イルソン)在世当時から金正日(キム・ヂョンイル)の率いる北朝鮮のイデオロギー的中枢機関で、金日成総合大学とのライバル関係でも知られていた)が主張するのは、この男性の骨が他ならぬ檀君の骨で、従って、いまから5000年前に檀君が平壌に実在した(高句麗時代に陵は改築された)、ということである。

 「日帝時代」に朝鮮の始祖檀君が、総督府によって物理的にもイデオロギー的にも徹底的に抹殺されたことはよく知られている。(細かく見ると、初期には必ずしもそうではなかったが。)日本ではその抹殺の結果だけが、味噌も糞も一緒にして楽浪郡以前の古朝鮮全体を無視するほどに、大手を振ってまかり通っている。(もっと後の時代であるが、同様に考古学上の知見だけによって諸説紛々の日本の「大和政権」の取り扱いとは、随分な差がある。) 北朝鮮では、解放後一貫して檀君は「神話」として取り扱われ、ただその神話の中に含まれる様ざまな要素を、古朝鮮の歴史的な反映であると見なす立場から、研究が行われてきた。その出発点となったのは白南雲(ペク・ナムン)で、(「檀君の遺骨発掘」を最初に報じた「朝鮮時報」10月4日号には、これは偶然だろうが、第四面に朝鮮大学校の任正爀 (イム・ジョンヒョク)による白南雲『朝鮮社会経済史』、改造社経済学全集版1933年、の紹介を載せている。)1979年の『朝鮮全史』に至るまでそれが継承されていた。かつて1920年代、間島(カンド)を根拠地とする独立軍の中から、檀君信仰を中心とする民族主義派との熾烈な党派闘争を経て社会主義者のグループ、抗日パルチザンが成立したことも前提になっていよう。 他方、南の韓国では、李承晩政権時代に法制化された檀君紀元はその後廃止されたものの、カレンダーを見れば西暦と一緒に檀君紀元も入っており(1995年、檀紀4328年)、10月3日は「開天節」の祭日になっている。(「韓国全教組のカレンダーを今年も買ったからそれは知っているよ」と、こちらがうれしそうに言うのを無視して、「おたく」は話し続けた。) 今回の発表は、(この話は、たぶん1994年の正月に聞いたものだったように記憶している。金日成の死去を経て、1994年の10月には平壌市江東郡に巨大な檀君陵が、集安の高句麗「将軍塚」風に、「復元」された。)だから、北朝鮮での檀君神話の取り扱いに大きな変化があったことを意味している。「民族固有文字」の「確認」とも相まって、このことの結果生まれてしまう3000年に近い「古朝鮮の歴史」の空白が今後どのように埋められていくか、興味深い。(「大 教」的な檀君以後の王名表になるのかどうか、民族固有「文字」に関して『寧辺誌』が使われていることを見れば、そうなっていく可能性が強いが。ー その後も、案の定、『檀奇古史』や『揆園史話』などが盛んに引かれている。)

 しかし、実は、今回の発表の真の意味は、もう一つ別なところにあると思われる。
 それは、従来、古朝鮮の領域を中国東北部を中心に想定してきた(『古朝鮮問題研究論文集』、社会科学院考古学研究所1976年、に代表される。古朝鮮の遺跡も中国領遼東半島の崗上墓、楼上墓という奴隷殉葬墓が典型的なものとされていた。1980年代韓国檀国大の尹乃鉉(ユン・ネヒョン)の説などは、これを剽窃したものだとさえ言われた。しかし、李朝実学派、そのうちの北学派や、李種徽(リ・ヂョンヒ)などの歴史観を受け継ぐ朝鮮「民族史学」の正統的歴史観は、むしろこちらの方である。この歴史観の由来や本質と「大朝鮮主義」の関係については、日本ではまじめに取り上げられることがなかった。)のを転換して、現在の平壌が古朝鮮の中心地だと宣言している点である。

 朝鮮の北部国境(白頭山(ペクトゥサン)以東)の一部がまだ未確定国境にとどまっていることはよく知られている。(旧韓末、韓国側の一貫した領土主張にも関わらず、外交権を喪失していたために清と日本との間の交渉で豆満江(トゥマンガン)が国境とされたいきさつは、前に「おたく」から聞いたことがあった。1962年中朝辺界条約の内容は未詳である。)
現在の北間島、中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州には、日本や韓国から多くの朝鮮人が訪れるようになっており、韓国資本の進出も急速に進んでいる。懸案の豆満江総合開発も関わっていよう。中国当局は中国東北部での朝鮮との国際関係、国境、民族問題についてはきわめて敏感で、これに関わる場合、学問的研究でさえどのような国家的規制がなされている(中国政府の公式的立場に抵触するような事柄は絶対に発表が許されない)かは、在日、在米の中国人が異口同音に語るところである。

 従って、今回の発表は、朝鮮側が潜在的な領土要求権を自ら撤回し、朝鮮の歴史を自ら朝鮮半島内に押し狭めることを意味する。(李朝実学派の巨匠、朴趾源(パク・チウォン)は、『熱河日記』の中で、「朝鮮の古い領域を戦わずして自分で狭ばめる」事大主義の風潮を批判している。今から考えれば、これは金日成のほとんど最後の決断の一つであったことになる。)

北朝鮮は、国家存立の根幹に関わるこの問題で、このような大きな代価を払っても、中国との関係を改善する必要があり、この発表はそれに向けた意思表示であったことになる。中国に対して、それほどの譲歩をする理由があったということである。あるいは、「主体思想」によって独自路線を歩む朝鮮民主主義人民共和国にとって、現状では、朝鮮戦争の時と同じように、中国という後背地を確実なものとすることがどうしても必要だったということもできる。また、逆に言えば、中国領に住む中国籍朝鮮人を本国から切り離す必要性があったという見方も論理的には可能である。(常識的には、これは事柄の結果であろうが。)それが、伏流する朝鮮ナショナリズム(日本に対する、そしてまた中国に対する、この思想こそが、朝鮮理解の鍵なのだ、と、以前に「おたく」は言っていた。)とどう衝突するかは今後の問題になるだろう。(天安(チョナン)の独立記念館の玄関を飾るのが白頭山山頂の天池であることもよく知られている。南の「在野」ではどうあれ、韓国「政府」は、北部国境の問題を表面上取り上げてはいない。しかし、極端な話だが、万一、北朝鮮国家が消滅すれば、中国政府は韓国との間で「国境」問題の再燃の可能性を覚悟しなければならないことになる。北朝鮮はこのことを担保にして中国との関係を維持できる。北朝鮮は中国との関係の中で、依存と「主体(チュチェ)」の間を綱渡りする微妙な選択をなしている。「おたく」の話の帰結は、語らずとも、こういうことになる。この点については、『外交フォーラム』1994年5月号の秋月望「中国の「楯」としての北朝鮮」が、中国側から見たその一面を、一面だけではあるが、ついていたように思う。)

 歴史解釈に関わって、この延長上には、漢の武帝が設置した「楽浪郡」が現在の平壌だという考え方も当然再燃するだろう。。(最近の北朝鮮の研究では、安鼎福(アン・ヂョンボク)や丁若鏞(チョン・ヤギョン)、それに旧韓末の金澤栄(キム・テギョン)を引いて、盛んに古朝鮮の首都「王倹城=平壌」説が解説されている。また、武帝の征服したのは副首都の「王倹城」であり、それは、遼東にあったもう一つの「平壌」である、とされている。)

 「檀君の遺骨」「民族固有文字」(そして壮大な檀君陵の「復元」)は、このように、朝鮮人にとって身を切るような本質的譲歩の、代償としての意味を持つのである。
 このように「おたく」は言った。 

        

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