青丘笑話(第三回)

印藤 和寛
  
   1 「檀君の遺骨発掘」「固有民族文字の発見」はなにを意味するか  1995年
   2 北朝鮮の国境協定締結と人工衛星打ち上げ  999年
   3 楊靖宇と「朝鮮の戦友」               2000年
   4 「金日成は日本人」「金日成は中国共産党員」  2001年
   5 北朝鮮の電力事情                  2001年
   6 チェコ式機関銃と朝鮮独立戦争          2003年
             
(1)チェコ式機関銃の記憶
      (2)1920年(大正9年、大韓民国2年)10月
      (3)「第二次朝鮮独立戦争(1919〜1922)」の疑問点
         (4)「自由市惨変」―1921年シベリアの大韓義勇軍
         (5)第二次朝鮮独立戦争(1919〜1922)の本質

 「赤火の火炎は長白山脈を飛超して来たらむとす」

6 チェコ式機関銃と朝鮮独立戦争

             ―関東大震災時の朝鮮人虐殺80周年を銘記する

 とうとう自衛隊がイラクへ派遣されることになりそうだ。クラブのOBとして学校に来る卒業生の中にも、イラクへ行かされるかもしれない、もうやめようか、と真剣に悩む「自衛隊に就職した」(こういう表現が正確かどうかはわからないが)若者がいる。「教え子を再び戦場に送らない」という私たち教職員の当たり前の気持ちが、今それを本当に貫こうとすれば非合法になるという時代がやってきた。銃弾を撃ち込む右翼には、しっかりした背景が生まれたということだろう。しかも、それが「戦闘地域ではない」というまやかしつきで実行されることの「お笑い」を、国会で賛成投票した人々も感じているだろうか。戦争でないがゆえになおさら、目的も、責任も、あいまいなままで、そこに国民全体の意思とはかけ離れた卑劣で下司な政治目的が忍び込む。日の丸・君が代も「強制ではない」。創氏改名も「強制ではなかった」。公海上でも「不審船」なら撃沈し乗員を虐殺して何の責任もとらず、下手人は被害者のような顔をしてすます。イラクでも起こるだろう。かつてもあった。「シベリア出兵」「間島出兵」から「満州事変」「支那事変」へと続く地獄の道、闇から闇へと人間を「処分」してきた道は、またこうして別な形で再現されるだろうか。そうした二度目の「喜劇」を防ぐ手だてがあるだろうか。

 今日の日本と朝鮮民主主義人民共和国との関係が、根本的には、「独立戦争」を「経済協力」方式で終結させようという共和国と、そもそも「独立戦争」自体の存在を認めず、「韓国併合」を「韓国皇帝の申し出により」受諾しやがて状況の変化により手放しただけだとして、「独立戦争」を「匪賊討伐」としか見なさぬまま60年間頬被りし続けた日本側と、この両者の矛盾から来ている、と力説する例の「北朝鮮おたく」から、最近聞いた話を以下にまとめてみる。

 世間で流布される「北朝鮮」の「笑うべき」「独立闘争神話」、「金日成が何人もいた」説、「成立の時から正統性に欠けた北の独裁政権」などという言説、だから「北朝鮮に制裁を」しても何のやましいこともない、と。しかしせめて、隣の国の、自分の国も大いに関わった歴史ではないか、もう少しはまともに事実を認識しないのか、という気は確かにする。「北朝鮮おたく」も、私が見る限り、朝鮮民主主義人民共和国の現在の政権に対して肯定的なわけではない。しかし、それは、ブッシュを肯定的に見ないのと同じ意味でそうなのだ。「北朝鮮」にだけ居丈高になれるような「お笑い」とは少し違う。

 また、そうした朝鮮独立戦争の評価は、実は関東大震災の際の日本帝国の振舞いの評価に直結する。私たちは、「おたく」とともに、大震災80周年を銘記し、1920年と1923年の史実について、『石洲遺稿』(高麗大学校影印叢書、1973年)をもとにして、若干の認識をつけ加えたい。 (印藤)

 

(1)チェコ式機関銃の記憶

 

 アメリカ軍がイラク人の武装解除を進めているという中で、イラクの人が差し出した武器の報道があった。その中にチェコ製の自動小銃などが出てきて、思い出した。

 先の大戦の経験者もいよいよ高齢を迎え、学校で生徒に対して、戦争体験を家で聞いて来るようにというような宿題も、もう出せなくなってきている。ところで、かつて中国に出征した人に聞くと、必ずと言っていいほど聞かされたことがあった。飛来する米軍機の攻撃の恐ろしさ、食料調達の苦しさともに、中国側が装備していたというチェコ式機関銃の、発射音についての鮮やかな印象がそれだ。水冷式のために、日本の空冷式のバリバリとけたたましい機銃音とは違う、なめらかな、タタタタタという発射音がそれで、そこには、敵側が優れた武器を持っているという率直な畏れの感情が伴ってもいた。

 また、後に1944年の朝鮮での「徴兵制」導入に伴い、中国前線に朝鮮人兵士が配置されるようになった時、日本側前線から次々中国側を目がけて逃亡しようとする朝鮮人兵士の背後を、日本人兵士は「当たらぬようにと祈りながら」射撃したと言う。

 旧日本帝国の兵士たちが「チェコ式機関銃」を密かに畏れるようになったのは、いつからのことだっただろうか。

 

(2)1920年(大正9年、大韓民国2年)10月

 

間島・沿海州の独立根拠地

 

 朝鮮の北部国境、鴨緑江と豆満江北側の中国領は、西間島、北間島と呼ばれる

 ―1910年以後それぞれの地域に独立根拠地が建設されていたことは「おたく」から前に聞いたことがある。

 西間島の独立運動の中心は柳河県三源浦で、その周辺哈泥河に新興武官学校が設立された。北間島ではロシア領に近い汪清県羅子溝の大甸に武官学校が作られ、その後、西大坡での根拠地設営に伴い、十里坪に士官学校が作られた。また、独立根拠地のもう一つの中心は、ロシア沿海州ウラジオストク北郊外の新韓村だった。さらに、白頭山西麓中国領安図県の大樹海の中に「白西農荘」、独立軍営の建設も企図されていた。

 1917年11月のロシアにおける労農ソビエト政権の樹立と「平和の布告」は、ヨーロッパ諸国での国民の動員に関わる戦争目的再構築に決定的な影響を及ぼしただけではなく、アメリカ合衆国大統領ウイルソンの平和原則14カ条の直接の原因にもなったことはよく知られている。朝鮮独立への新しい展望がこここに開かれた。

 その頃李東輝―1911年に彼が城津から北間島明東を経てウラジオストクに来た頃、そこは独立運動の一大根拠地だったが、1914年の開戦と共に、独立運動家たちの日露再戦の期待は裏切られ、「日露協商」下のロシア政府の弾圧を受けた―は、ハバロフスクの監獄から釈放され、沿海州での活動を基盤に大韓国民議会を組織した。また、モスクワ大学政治学科出身の朴鎮淳(ミハイル)と共に韓人社会党を結成、ソビエト新政府との連携を模索していた。

 

日本軍の「シベリア出兵」

 

 1918年8月に始まった列国共同出兵の一環として、日本帝国もまた「アメリカの提議に応じて」「チェコ軍救出のために」ウラジオストクに派兵する。そこで日本軍が目にしたものは、何であったか。

 「毎年8月29日の併合記念日には、新韓村に於いては国恥記念寒食日と称して各戸炊煙を挙げず、昨年(1918)の如きは我軍隊の在るあり、その眼下に帝国駆逐艦の碇泊せるに拘らず、盛々示威運動をなし、激烈なる独立鼓吹の演説をなし、太極旗を掲げて独立万歳を叫び……」(篠田事務官の大井軍司令官あて報告。1919年9月)

 「此間排日朝鮮人ハ派遣隊ノ上陸ヲ以テ領土的野心ヲ有スルモノト称シ、益其運動ノ度ヲ高メ、約二百ヨリナル一団ハノウォキエフスクニ於テ、同地露国過激派ノ一部ト結ビテ日本軍ヲ粉砕セント揚言スルニ至リ……然レドモ(1918年10月の武器押収と浦塩派遣軍司令官よりの中止命令後)排日鮮人ノ韓国独立運動ニ関スル不穏ノ言動及一部不逞露人ノ排日的行為ハ、尚之ヲ終息セシムルコトヲ得ズシテ爾後常ニ派遣隊ヲシテ苦慮セシメタリ。」(参謀本部『西伯利出兵史』)

 ウラジオストクに上陸した陸軍第十二師団は、朝鮮銀行券によって直接現地で物資を調達した。軍資金としての朝鮮銀行券は、柳行李に収められ、朝鮮銀行員によって軍隊と共に前線へ運ばれた。信用を失墜したルーブル紙幣に代わって、北満から中東鉄道沿線、沿海州とシベリア鉄道沿線、そしてチタ方面にまでその流通区域は拡大していった。朝鮮銀行の営業所が龍井、吉林はじめ満州各地に開設され、また、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスク、チタなどに銀行派出所が設置された。こうして、特に東三省(満州)地域では、中国人の「銀を以て主とする貨幣市場」とは別に、朝鮮銀行が「対金貨国貿易為替取扱銀行」の中心としての地位を築くに至った。元来、これが「シベリア出兵」の一つの大きな意図であったには違いない。当時の中国段祺瑞政権への西原借款贈与、軍事協定、そして奉天の軍閥張作霖との関係強化と相いまって、壮大な東アジア円通貨圏の樹立も構想されていたことは、勝田主計の回想や朝鮮銀行史から知られる。

 1918年秋、「米騒動」への「鎮圧」出動の直後に故国を発って増強されてきた日本軍が、ブラゴベシチェンスクを占領してそこのソビエトを崩壊させた後、歩兵第47連隊(小倉)本部は旧アレクセーエフスク、ロシア皇太子の名前をとった町、革命後はスヴォボードヌイ、自由市と呼ばれるようになった町に駐屯した。ところが1919年初めには付近で革命派パルチザンに日本軍守備隊が襲撃され大きな被害を受けたことがきっかけになって、日本軍はゼーヤ河沿いの豊かな農業地帯イヴァノフカを襲撃、こうして、日本軍は全ロシア住民を敵とする勝つことのない戦いの泥沼に入り込んでいく。シベリアの朝鮮人も、ヨーロッパ東部戦線から帰還したロシア国籍の人々を中心に、各地でパルチザン部隊を結成して日本軍と戦い始める。「朝鮮人部隊は規律、大義への専心と敬愛の模範を示していた。」その間、1918年、コミンテルンより派遣された極東宣伝部長クレコルノーブがハバロフスクの韓人社会党と接触を持ち、李東輝は朴鎮淳をモスクワに派遣した。レーニンの「民族自決」原則に基づき、ソビエト新政権が朝鮮独立を支援するものと期待されたのである。

 

「大韓民国」独立宣言

 

 1918年末、東三省(満州)と沿海州の独立運動家たちは連合して「戊午独立宣言書」を発表した。これは金教献あるいは趙素昂の起草による。李東輝は北間島で独立軍の募兵と訓練を開始した。1919年2月になると、パリ講和会議に向けて、大韓国民議会発行の旅券を持った代表尹海と高昌一がシベリア鉄道経由で出発、ほぼ同時に、上海の新韓青年団からは金奎植が南回りで海路パリへ向かった。ソビエト政府の赤軍とオムスク政府の白軍の対峙する最前線を通過したこのシベリア鉄道の旅は、実に十カ月を要し、彼らがパリに着いたのは、講和会議も既に終り、大韓民国臨時政府代表としての金奎植の活動も終ってパリを離れた後のことだった。

 こうして、2月8日東京神田での「独立宣言」(李光洙起草)と3月1日ソウルでの「独立宣言」(崔南善起草)に至った。3月13日には北間島の龍井で「独立祝賀会」が挙行され、中国軍警との衝突で死者14人を出し、琿春の日本領事館分館では日章旗が引きずりおろされた。明東学校、正東学校など朝鮮人学校の職員生徒は忠烈隊320人を組織して、機関銃を購入した。

 ―北間島明東村では、1917年生まれの尹東柱はこの時まだ二歳の幼児だった。  

 3月2日、首相原敬はその日記に、「朝鮮万歳事件」の記事に続けて、次のように書いている。

 「先般朝鮮総督より浦塩(ウラジオストク)の朝鮮人を一挙に検挙せん事を大谷司令官に申し送りたる旨報知あり、大谷は懐柔を主として此挙に賛成せず、拓殖局長官よりも其不可を総督に申送りたり、十分考慮すべき問題なり。」

 

大韓民国臨時政府

 上海の大韓民国臨時政府は、1919年4月10日に樹立された。「民国」、すなわち「民主共和制」が臨時憲章第1条で宣言された。内務総長安昌浩、外務総長金奎植(パリへ派遣中)、軍務総長李東輝、財務総長崔在亨などの分担とともに、交通局を通じて国内各地と聯通制を敷き、朝鮮での二重権力状態を生み出した。国内での非暴力運動で敗退挫折した青年たちが、独立根拠地に押し寄せつつあった。

 9月2日、ウラジオストクから「京城」南大門前に入った老人同盟の姜宇奎は、新総督斉藤実を爆弾で迎えたが、国内での独立運動が日本軍によって7500の死者を出して鎮圧された後、また、パリでの講和会議の結果が失望をもって伝えられた後、いよいよ、独立軍による独立戦争の開始に向けて、すべては動き始めた。9月11日、上海では「臨時憲法」が制定され、臨時政府はアメリカにいる李承晩を大統領に推戴、李東輝が国務総理に就任した。

 李東輝は4月25日ウラジオストクの新韓村で韓人社会党代表会議を開いてコミンテルン加盟を決定、次いで金立らとともにロシア領から間島に移って、独立軍の編成を進めた。日本軍と白衛派の圧迫により「露領内ニ於テハ思ハシク活動シ難」いため、「間島方面ニ根拠ヲ移」したのだった。(現代史資料朝鮮2 p108およびp152)

 李東輝のもとでの臨時政府は、モスクワのソビエト政権と交渉を進めつつ、その援助の下に、独立軍が沿海州・間島から咸鏡北道、平安北道に進攻する、という戦略が追求されていたことになる。あたかも1920年1月、オムスクのコルチャーク政権は崩壊し、革命派は各地で進撃を開始していた。イルクーツクを先頭にウラジオストクでもブラゴベシチェンスクでも革命派が勝利を収めた。日本軍は中立化せざるをえず、動揺が始まった。ウラジオストクからのチェコ軍の帰国に伴い、アメリカ軍もまた撤兵を発表した。チェコ軍の装備は撤退時に売却され、朝鮮人の手にも渡りつつあった。

日本「シベリア出兵」の最後の目的

 

 元来、1917年夏の段階では、朝鮮人兵士は白衛派軍に約1200人、チェコ軍傭兵として400人、革命派パルチザン「露国過激派軍隊」に1500人、旧帝政軍在郷軍人300人がいた。彼らが1919年春には、コルチャーク白衛派軍への応召、あるいは、中国領間島への脱出と独立軍への参加、あるいはまた、露領内での革命派パルチザン部隊への入隊と、これらの間で選択を迫られていたことになる。とりわけ、都市部が干渉軍と白衛派に制圧されていた時期、オリガ郡スーチャン河谷には1919年3月に臨時革命本部が設置され、その中で、復員帰郷して朝鮮人村ニコラエフカの村ソビエト議長に就任した韓昌傑(グレゴリー)が指導者となって朝鮮人パルチザン部隊が組織され、重要な役割を占めていた。他にも呉夏黙の自由大隊、金ペテロのイマン軍、朴グレゴリーの独立軍団、朴イリアの尼港軍などが日本軍と戦っていた。

 1920年春、革命派の支配するウラジオストクの状況は、日本帝国にとって恐るべきものになっていた。

 「此の(1920年3月8日革命記念日)大示威運動は、革命の浦塩に於ける最初の催しで、人心を昂奮せしめたこと夥しかった。殊に、我憲兵隊を驚かせたのは、此の赤い示威運動の中に多数の朝鮮人が参加したことであった。」

 これに先だって、3月5日、日本帝国政府は日本軍が単独でシベリア駐留を続ける目的を、次のように閣議決定していた。

 「帝国ト一衣帯水ノ浦塩方面モ全然過激派ノ掌中ニ帰シ、接壌地タル朝鮮ニ対スル一代脅威ヲ現出スルト同時ニ、同派ハ進ンテ北満ニ侵入シ来ルノ虞アル処、此ノ如キハ帝国自衛上黙視シ難キ所タリ」

 ―「おたく」の指摘するこの日本政府の決定は、従来、「共産主義の脅威、それの朝鮮独立運動への影響」として理解されることが多かったように思う。しかし、共産主義とも結びついた「朝鮮独立運動」それ自体こそが主要な敵であったことは、具体的な歴史過程から明らかになるだろう。20年も前に、辛基秀さんが「シベリア出兵が朝鮮独立運動の弾圧を主要目的にしていた」と強調されていたことがあった。あれは、何によってそう言われていたのだろうか。もう今はお聞きすることができない。

 こうして、アムール河口のニコライエフスクでは、いったん降伏した日本軍守備隊が、3月12日未明、その協定を破棄して再度パルチザン側に襲撃を加え、敗北して、居留民を含む700人余りが全滅した。この「尼港事件」の背景の一つには、この日本側の根本的な方針変更があったことになる。

 −「尼港事件」については従来さまざまに論議されてきたが、日本帝国のシベリア出兵目的の変更と関連させて考察することは、なされてこなかったのではないだろうか。次のサイトを参照。
>日本近現代史研究 ・尼港事件殉難者記念碑(茨城県水戸市) ・第1次大戦と20世紀サイト 

 

日本軍の朝鮮独立運動との対決

 アメリカ軍の撤兵完了を最後に欧米列強軍の姿が消えて、直後の4月4日、日本軍はウラジオストクの革命派、沿海州政府軍に対して攻撃を開始、一挙に武装解除して市街を制圧した。次いで4月5日午前4時、新韓村を包囲、突入して朝鮮人指導者60余人を根こそぎ逮捕し、学校を焼き払った。旧駐露大使李範晋の千ルーブルの寄金と、この地に亡命してきた李鐘浩の五千ルーブルの義捐金によって建設された「宏壮美麗な韓民学校」はこうして消滅した。ニコリスク(双城子)でも4月4、5日の両日捜索が実施され、62才の崔在亨(才亨)を含む四人を連行し、憲兵隊はその途中で彼らを射殺「処分」した。他の逮捕された人々については、「彼らはひとまとめにして首に古レールをつけられ、ウラジオストクに近いウスリ入江に沈められた。」崔在亨は沿海州の在露朝鮮人の草分け、元老であり、上海臨時政府の財務総長にも推された人物である。日本帝国側の論理は、「鮮人ハ凡テ帝国臣民(帰化非帰化ヲ問ハス)トシテ取リ扱フヘキモノトス」というもので、検挙された朝鮮人は、未遂、予備、陰謀を含め、すべて帝国臣民の反逆者として軍の臨時軍法会議で軍律により処断される建前であった。

 一方、日本帝国政府は、中国東三省巡閲使、奉天督軍張作霖に、中国領での朝鮮人独立運動の取り締まりを要請、5月末にはその警察顧問上田統らが自ら出動して、西間島柳河県三源浦への強制捜査をおこなった。韓族会の幹部と上海臨時政府議政院議員ら5人がこの時逮捕された。この時は、それだけですんだかに見えた。

 ウラジオストクの新韓村はこうして壊滅した。各地革命派パルチザンの朝鮮人部隊が、今度は日本軍の主敵となって戦うことになる。日本帝国が朝鮮独立運動への軍事作戦行動準備を完了する8月(朝鮮駐屯日本軍、「朝鮮軍」司令部による「間島地方不逞鮮人剿討計画」が完成する)に先立って、朝鮮独立戦争は遂に火蓋を切るのである。

 

朝鮮(第二次)独立戦争の開始

 ―「おたく」は、1907年以降の「義兵戦争」を「第一次独立戦争」、1920年以降を「第二次独立戦争」、1930年代の「中国抗日聯軍」朝鮮人部隊の戦い、いわゆる「金日成のパルチザン闘争」を「第三次独立戦争」と呼んでいるらしい。朝鮮人でもない「おたく」が、朝鮮人も言わないこうした「独立戦争」の呼び方をするのは、どうかとも思う。しかし、今は、彼に従っておく。

 北間島では、1920年6月4日未明の洪範図に率いられた大韓独立軍部隊の渡河襲撃と日本軍の越境反撃、6日三屯子、7日鳳梧洞での激戦以後、朝鮮人の多様なグループの武装部隊が豆満江を隔てて日本の羅南第19師団、会寧第19工兵大隊と対峙していた。臨時政府傘下の北路軍政署は汪清県西大坡にあり、総裁は徐一、総司令は金佐鎮であった。しかし、まだ、国民会系の武装部隊との間での衝突もあり、「民国元年三月一日以後ニ組織サレタル当地方ノ独立運動団体ハ略十二個団体ニシテソレ等各団体ノ宗旨ハ興韓倒日ト云フ同一タルモノナリ。各々一番優秀ナル事業ニヨッテ地位ヲ占メヤウトスルモノニシテ貴政府ニ服従スルヲ希ハス」(1920年3月上海臨時政府国務院宛報告、独立運動年鑑p76)という状況があった。

 ―当時、豆満江南側、会寧の第19工兵大隊に4月から10月まで、陸軍士官学校の半年間教育赴任中の三好達治がおり、また、同じく羅南には親友の西田税がいたことは、前に「おたく」から聞いた。10月にはこの工兵大隊によって上三峯の1.5km下流に「図們江日本軍用橋梁」(筏橋)が急造され、そこから日本軍は間島へ侵入して、「間島出兵」が開始されることになる。

 西間島では、既に1919年4月に独立戦争遂行のための軍政府が組織され、李相龍総裁、金東三参謀部長、池青天司令官が就任、通化県哈泥河の新興武官学校本校の他に七道溝快大帽子と孤山子河東にも分校が設置されて独立軍の養成が進められていた。1919年11月には、激論を経て上海臨時政府の傘下に入り、西路軍政署として改編された。その後白頭山北麓安図県の森林の中に兵営地を設定して、1920年には兵力2000人の「義勇隊」(独立軍は、公式にはこう呼ばれた)本部もそこへ密かに移動していたと考えられる。

 ―この年の夏(七月)の西間島三源浦の様子は、ニム・ウエルズの『アリランの歌』の美しい記述で有名だ。15才の主人公金山(張志楽)は年齢を理由に独立軍からはずされ、牧師の娘と「一と月近くも、テニスをしたり、湖水で泳いだり、網で魚をとったりして暮した」という下りがそれで、彼が上海に去った後、悲劇が訪れる。

 1920年8月、西間島の独立軍根拠地は、突然馬賊に包囲された。

 「長江好―部下1500人を率いる満州の馬賊―は邦人中野清助の仲介にて朝鮮総督府の嘱託に依り、大正九年八月頃柳河県三源浦の不逞鮮人を襲い、その首魁20余名を捕え、……押収の重要書類を携え朝鮮総督府に出頭し、将来の行動に協議の上引返し、前記不逞鮮人の首魁20余名を銃殺、……」

 また、関東軍の杉山大佐が率いる歩兵第19連隊一個大隊が鉄嶺から、また騎兵第20連隊の主力が公主嶺から出動したのは、二か月後の10月末のことである。日本側の記録によると、この杉山支隊は11月末までに、連行途中で少なくとも81人を「処分」している。それは、「不逞行動事実顕著ニシテ改悛ノ見込ナク」「恕スヘカラサル者ニ係リ真ニ已ムヲ得サル処ナリ」とされている。

 上海臨時政府の資料「墾西―間島は墾島とも書かれた―軍政署督判李啓源報告」の中に、「大韓民国二(1920)年四月以後同三年二月十六日迄ノ間西間島地方ニ於テ日本軍警ノ為メニ射サレタル者ノ氏名」34名が記載されている。(年鑑P153)そこには韓族会の幹部の名が網羅されており、後に見る北間島とは違って、ここでは、地元に残留していた指導者層はほぼ全滅したのであった。

 

安図県に集結しつつあった独立軍、兵力四千以上

 ところで、李相龍『石洲遺稿』のこの時期の漢詩を見れば、「分駐教成隊」が安図県にあっただけでなく、李青天が安図県知事によって「討匪司令」とされており、また「西路軍政署督辧」李相龍自身が三源浦から出撃して安図県に移動していることが分かる。独立軍主力は密かに出撃していたのである。「金弼、既に囹圄を脱し、再び柳県に入るも、日兵の獲うる所と為り、竟に虐殺さる」の詩もある。一連の詩の最後では10月、「敵兵東西より挟進す。安図県知事、屡(しばしば)我軍に退避を請う。已むを得ずして東崗に移る」と記されている。ここから、当時、独立軍は中国安図県知事の了解の下に、そこを集結地としており、馬賊や関東軍はその留守の間に本拠地を襲撃したことになる。

 9月になると、張作霖への日本側の要請に基づいて孟富徳が討伐隊長に任命され、朝鮮独立運動への討伐行動が開始された。中国側のそれは、多分に名目的なものに過ぎないが、それと同時に、北間島の北路軍政署軍は汪清県西大坡の根拠地を出発して、移動行軍を開始した。

 9月27日、既に出兵出動途中の日本側には、「安図県五道陽岔一帯の森林中に三千人以上の決死隊員が結集し、茂山で開戦しようとしている」「李東輝、洪範図の名義にて長白県十二道溝移住鮮人に対し独立団員一千名十月十一日を期し鮮地に侵入すへきに付、之に供する粟及鶏等を準備し置くへき旨密書を配布」などの情報が入っていた。(『現代史史料 朝鮮』)朝鮮国内では、創刊されたばかりの「東亜日報」「朝鮮日報」も長期停刊とされ、厳重な報道管制が布かれたが、北部国境地帯だけでなく、「京城」ですら官吏や警官の欠勤、サボタージュが広がっていた。義烈団などによる警察署等権力機構への攻撃も頻発していた。

 決戦の時は近づきつつあった。独立軍の朝鮮国内への進攻は、当然朝鮮全土での革命状況をもたらし、二重権力状態を露呈させることになる。しかし、こうした軍事情報は、一般の日本人には知らされるはずもなかった。その認識の欠落は、今日にまでそのまま及んでいる。

 ―「おたく」の言うところによれれば、少なくとも、「間島出兵」は、日本側の一方的な独立運動弾圧などではなかった。独立軍数千の朝鮮国内進攻の脅威は、大日本帝国の中枢を揺るがしており、彼らが必死でこの独立(革命)軍と対決したのが「間島出兵」であったことになる。

 1920年6月22日「報知新聞」の報道によれば(趣旨)、「政府は次第に朝鮮辺境の不穏事情の一端を公表しだしたが、それは実にその一端にすぎず、事実はさらに重大であって、辺境の事情よりも朝鮮内地の実状は、なお一層重大なものがあり、消息通は、国民が速やかに覚醒しなければ、朝鮮の国土がわれらの所有ではなくなる日も遠くないと、一致して語っている。」
 また、志賀重昂は1921年5月7日の「大亜細亜」掲載の文章で、「宜しく速に朝鮮の自治を半島人民に公約すべきなり」と主張するなかで、「中央にては、朝鮮総督に向ひて爆裂弾を投下したる不祥事有り。北にては、琿春にて日本人虐殺の惨事有り。南にては白昼、釜山警察署襲撃の暴行有り。不逞の空気、全半島に横溢して停止する所を知らず。且つ赤火の火炎は長白山脈を飛超して来たらむとす。帝国百年の深憂大患は実に朝鮮半島にあり。」と述べている。

  ここに言う「赤火の火炎は長白山脈を飛超して来たらむとす」というのが、朝鮮独立軍四、五千人(大韓民国臨時政府の西路・北路軍政署での正式名称は「義勇隊」)の祖国進攻であることを、はっきりと認識しなければならない。
 報道管制の中から漏れたこうした言葉の真の意味が、今になってようやく明らかになったという、これは日本人の歴史認識の、お粗末な「お笑い」と言うべきなのだろう。

1920年秋の「危機」の真相

  1920年秋、コミンテルンと連携した朝鮮独立軍四、五千人の祖国進攻作戦が眼前に迫っていたという事実、日本帝国の朝鮮支配が覆るという日本帝国存立そのものの危機があったことは、その後忘れられた。韓国でさえ、長い間、李範?の『韓国的憤怒』―1941年に中国で発刊された中文の回想録。汪清県西大坡十里坪の北路軍政署士官学校の教官であり、青山里へは中隊長として出撃、自由市惨変を経験した―だけがこの時期の事情を知る根拠とされてきたのであり、近年の研究の中でようやく概略が明らかになっているに過ぎない。しかし、その当時にあっては、日本国内でさえ、事情は漏れ伝えられていた。その真実は、1923年9月に東京にいた内務大臣水野錬太郎・警視総監赤池濃(あつし)らが、1920年朝鮮総督府に在任していて、何に直面していたかの事情を物語る。

 9月、中国側では、奉天軍閥張作霖への日本側の要請に基づいて孟富徳が討伐隊長に任命され、朝鮮独立運動への討伐行動が開始された。それと同時に、北間島の北路軍政署軍は汪清県西大坡の根拠地を出発して、移動行軍を開始した。後に日本側が鹵獲した文書の中に、「徐利勲 右学徒が本所規定による歩兵科学術を終えたことをここに証する。大韓民国二年九月九日、大韓軍政署士官練成所長 金佐鎮(原朝鮮文)」という「畢業証」が見え、押収された司令部日誌は十三日で終わっているので、その頃には十里坪の士官学校を撤収して行軍に移ったことが分かる。また、同日誌には、9月6日から7日にかけて中国陸軍200余名が到来して「司令官ト円満ナル交渉ヲ終了シ」とある。こうして、600人の士官練成生を含む2000人余の独立軍は、西方へ、安図県へ、向かったのである。そこには、別に、西路軍政署の独立軍2000人が待機していた(この待機部隊のことは、当時の日本側も十分察知していなかった可能性がある。また、現代の韓国での研究でさえ、十分認識されているとは言い難い)。北間島国民会の李園、安武や都督府崔振東指揮下の独立軍もそれぞれ西に向かっていた。従って、そのまま推移すれば、白頭山西側、豆満江北側の中国領安図県に、十月初めには四、五千人の独立軍が集結し、南下して朝鮮領内へ進攻することになっただろう。

 

「間島出兵」と青山里戦闘 

 1920年10月2日払暁、琿春の日本領事館分館が400名の馬賊の襲撃を受けた。建物は全焼し、警察官を含む日本人10人余りが殺された。この馬賊集団の頭目は12月に中国側の討伐隊によって逮捕され斬首されたという。この事件の真相については現在まだ不明のところが多い。しかし、この事件の国内における報道が「間島出兵」の口実とされたことは事実である。

 事件後直ちに朝鮮の慶源守備隊から80人が出動し、10月7日には日本帝国政府は「不逞鮮人らが支那馬賊及び過激派露人と提携して遂行したるもの」として、この「険悪なる情勢」に対処するため、中国側の承諾なしでも「自衛のため」に出兵して「不逞鮮人討伐」を強行することを閣議決定した。日本国内の新聞は一斉に、陸軍の発表に沿って、「過激派露人」と結んだ「不逞鮮人」の残虐行為を取り上げ、「尼港の二の舞」と称したのであった。

 既に1920年1月に会寧・上三峯間40kmの図們軽便鉄道が開通していた。10月、日本側は上三峯からさらに北、1.5km下流に筏橋を急造、羅南の第19師団に第20師団の一部を加えてこれを三支隊に分け、一挙に中国領間島(現在の吉林省)に侵攻した。これに伴い、日本警察隊は、あらかじめ調査してあった琿春韓民会(国民会)の各機関、幹部の名簿、資料を持って10月4日午後7時に行動を開始、10月15日夜9時に四道溝に到着して直ちに約300人の朝鮮人を逮捕した。同時に、ウラジオストク派遣軍第14師団からは二支隊が東から侵攻し、西からは関東軍が鉄嶺を発って出動した。日本軍総兵力約二万が朝鮮独立軍に立ち向かったことになる。

 龍井村から西方へ向かって掃討作戦を展開したのは東支隊である。羅南第19師団から東陸軍少将の率いる第37旅団が編成され、そこには第19工兵大隊と第27騎兵連隊が加わっていた。

 10月18日午後、茂山から豆満江を越えた北方に当たる和龍県三道溝青山里で、朝鮮独立軍は西に進む日本軍を発見、10月21日にその先頭部隊を白雲坪に誘い込んで、これを撃破した。独立軍第一梯隊指揮官金佐鎮、弟二梯隊指揮官李範?(指揮官については諸説がある)、総兵力2800は翌22日には合同して、馬鹿溝を中心に5000の日本軍と激戦を交え、別に泉水坪では、島田騎兵中隊を奇襲して、大きな打撃を与えた。

 10月25日、日本の朝鮮軍司令官は陸軍大臣に宛てて「此方面ニアル賊徒ハ金佐鎮ノ指揮下ニアル軍政署ノ一派ト独立軍中洪範図ノ指揮スル一団トヲ合セ機関銃等ノ新式兵器ヲ有シ約六千ヨリ成ルガ如シ従テ他方面ト異ナリ頑強ニ抵抗シツツアリ」と打電している。

 日本側の報告では東支隊の損害は戦死兵卒三名であった。上海の臨時政府では、日本軍に与えた損害を「死者600余名」と記録している(『年鑑』P92)。その後独立軍は戦場を撤収し、24日から26日にかけて安図県の黄口嶺に到着、そこからは、(南ではなく)北へ向かい、11月下旬には密山に再集結した。

 一方、独立軍の中心部隊が去った北間島は、日本軍が制圧した。

 「穏城方面ヨリ進出セル木村支隊ハ大坎子附近ニ於テ約二、三十名又西大坡附近ニ於テ数十名ノ賊徒及同嫌疑者ヲ銃殺シタリト」(10月30日秘間情第48号)

 「各討伐隊は其の区域内にある匪賊を徹底的に捜索し、且彼らの利用せし建物軍需諸品等を破棄消却すべし」という命令の下で、日本側が記録したものだけで「射殺494、逮捕607、焼却建物民家531、学校27、教会1、兵舎21」ほかに12,227人を帰順させるという結果をもたらした。朝鮮人側はこれを「庚申惨変」と呼ぶ。こうして、独立運動の根拠地は西間島でも北間島でも、いったん根こそぎにされたことになる。

 日本軍は、中国領での越境軍事行動ということでの中国側との摩擦もあり、11月末には討伐行動を打ち切り、一部残留部隊を除いて中国領からの撤兵を開始した。こうして「間島出兵」は終了した。しかし、日本側の評価もまた、「殲滅的打撃ヲ与フル能ハス其中心的人物ト目スヘキモノノ大部ハ之ヲ逸シタルカ如シ」(参謀本部『間島出兵史』)というものであった。

 

統一された大韓義勇軍の成立とロシア領への移動

 この間、「貴政府(上海臨時政府)ニ服従スルヲ希ハズ」(『年鑑』P76)とされていた北間島の朝鮮人諸団体は、10月29日ついに合同して臨時政府の傘下に入り、独立軍各部隊は北路軍政署の下に統合、司令官は政府からの任命を待って空席とし、その下に第一連隊長洪範図、第二連隊長金佐鎮、第三連隊長崔振東の三個連隊が編成されることになった。そこに、西路軍政署の独立軍も合流した。

 ある文献によれば、この10月に間島に散在する諸団体が合同して大韓国民団となり、会長に金虎、議事部長尹世復、軍事部長金燦が就任、西間島軍備団と北間島国民会の軍事部も統合されて大韓義勇軍軍事会となり、李縺iハーグ密使事件の李儁の息子)が司令官になったという。

 これら「大韓独立軍団」約3000は、翌1921年1〜3月の間に、密山から洪範図の部隊を先頭にして順次氷結したウスリー江を渡り、ロシア領イマンに移動、そこで呉夏黙らロシアの朝鮮人「自由大隊」の援助を受けてロシア兵営に入った。元来、洪範図の部隊などはロシア領沿海州と往来しており、ロシア在住朝鮮人も多数兵士として参加していたのだから抵抗はなかっただろう。

 上海臨時政府の国務総理李東輝が前にモスクワに派遣していた朴鎮淳は、コミンテルンから供与された40万円の宣伝費を持って11月にチタに達し、モンゴルを越えて年末には上海に帰着した。1月、李東輝は上海で国務総理を辞任し、韓人社会党を改組して高麗共産党を結成している。1920年10月から翌年2月まで停刊とされていた朝鮮の新聞「東亜日報」は3月17日付けで「三千人の排日団、太平溝で過激派と連絡」と報じ、「ハバロフスク方面に集結した排日朝鮮人3000名が露国過激派約4万名と連絡して、密山県大甸子地方に軍政署や他の諸団体を召集、一方イマン地方では仮政府の国務総理李東輝が武器の買い入れに奔走している」と述べている。同様に、同年2月4日の時点で朝鮮人歩兵自由大隊長呉夏黙が掌握していたところによれば、合同民族連隊は合計5000余名、うち自由市に歩兵大隊が1200、ハバロフスクに間島から移動してきた部隊500、イマンに崔ニコライのタバン隊60、スーチャンに韓グレゴリー(昌傑)部隊1000、スイフン地区の武装農民軍600、中国領フクジンの崔玉部隊300、ロシア領に移動行軍中の間島部隊1400であった。

 これらは大韓民国臨時政府の「大韓義勇軍」であり、諸種の文献によれば、同隊参謀部員として15名の名前があり、洪範図、安武、徐一、曹c、李青天、李縺A蔡英、崔振東らがそこに名を連ねている。

  春、解氷期を待って、こんどはロシア領内のウラジオ派遣日本軍が独立軍追撃を開始した。

 「間島及琿春地方ニ於テ各派不逞団ノ我軍出動ニヨリ露支国境ニ駆逐セラルルヤ、敗残ノ徒ハ悉ク露領水清(スーチャン)地方ニ遁走シ密ニ捲土重来ヲ夢ミ居タル際、我西伯利亜派遣軍ハ翌大正十年ノ解氷期ヲ待ツテ長駆不逞武装団ヲシベリア奥地方ニ圧迫スルニ至レリ。」(『西伯利出兵史』)

 しかし、3月5日の政府方針により、「帝国軍隊ノ守備線ヲ短縮シ後貝加爾(ザバイカル)及黒竜江方面ノ軍隊ヲ撤シテ之ヲ概ネ東支鉄道沿線及浦潮地方ノ沿海州ニ配置」することになった結果、ニコラエフスク(尼港)は例外として、イマン以北はその範囲には含まれないことになった。イマンは軍事的中立地域となり、ハバロフスクでは日本軍を打ち破ってソヴィエト権力が復活した。極東共和国軍との4月5〜8日のハバロフスクの戦闘で、日本軍は280人にのぼる死傷者を出して後退している。

  こうした中、大韓義勇軍はイマンからさらに北へ移動し、黒竜江の北、ゼーヤ河畔のスヴォボードヌイ(自由市、旧名アレクセーエフスク)の兵営に入った。そして中国北京では、4月27日、「軍事統一籌備会」が開催された。シベリア、満州、ハワイ、朝鮮国内の10団体代表による会議の最大の懸案は、大韓義勇軍の指揮権の問題であった。

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