在日朝鮮人教育にかかわる私の原点(2)
(『むくげ』68号1980.6.25より)

 稲富 進

「目の前の子どもを見るたしかな眼を上とか「しんどい子どもをクラスの中心にすえて」など民主教育を問いなおす実践の軸となる視点が生まれてきたことはたしかである。けれど、実践をすすめようとする教師が、そのたしかな眼をもつまでに至る道程として、自分の生きてきた道と深くかかわって築かれた内なるものとのたたかいが不断にたくわえられなければならない。

 

1.なぜ部落間題が見えなかったのか

「やあ、先生! やっぱり稲富先生やね。なつかしい。何年ぶりやろう。こういう研究会で先生と会えるなんて。先生、わたし今、浪速地区の保育所で働いているねん。先生もがんばってるんですね。これからもよろしく。」

昨年、八尾市で開かれた同和保育研究大会にパネラーとして出席した時のことである。声をかけてきたのは、20年にもなるだろうか、難波中学で教えたAだった。彼女は今、同和保育の運動にかかわってがんばっているという。

彼女を受け持っていた当時、私はまだ、新任、教師としても新米だった。けれどそのスタートにおいて、教職にかける情熱はかなりのものであったように思う。

朝早くから日が暮れるまで、子どもたちといっしょにいることは楽しいことだった。前夜遅くまでかかって教材研究して授業にのぞんだのにどうも生徒がのってこない深刻に悩みもしたし、研究会への参加や雑誌や図書をとおしての研究にも力いっぱい励んだ。授業の合間の十分間の休憩時間も、クラスの生徒のところにいて、いろんな話をすることが楽しみだった。

多くの生徒が訴える「勉強がむつかしい。わからない」という声に精一杯応えようと努力した。放課後、こういう生徒を残して、補習することもしばしばだった。

校内の事務分掌にも積極的な役割を受け持って処理していった。このように、教育に誠実に、まじめにとりくんだのだったが、難波中学に在籍した八年間の間に、わたしは部落問題が見えなかった。

なぜだったろう。現在も、そのことを考えつづけている。

 

2.しんどい子どもに何をしたか

担任したクラスに、きまって4〜5人の貧困な家庭の子どもがいた。「非行」に走る子どもがいた。家庭訪問をいやがる子どもがいた。いやがるのを押し切って訪問してみたら、粗末なバラック建ての部屋におおぜいの家族が住んでいた。子どもの勉強机といえば、ミカン箱を横にして使っている様子である。ふとんを出した押し入れを子どもの寝床にする家庭もあった。

行商や、零細な皮革業の職人や、鉄くず商など、いわゆる不安定な部落産業に働く被差別部落の当時の状況は今よりずっと深刻だった。そういう環境に育つ子どもたちが、学校内でさまざまな問題を教師たちにつきつけたのは当然だった。

けれど、その子どもたちが、学習面で、生活面で具体的な形でわたしたちにつきだしてくる「低学力」や「非行」や「貧困」の問題を被差別の結果として、部落問題の凝集としてとらえていくことは全くできなかったわたしであった。

「先生、忘れました。」「また忘れたんか。しゃあないな。今月は締めきりやからまた来月でもええからな。お母ちゃんにそういうとき……」学校徴集金の納入袋を目の前にして、いつもこういう会話をかわした何人かの生徒がいた。当時は、学校の維持運営費の多くが保護者の私費負担であった。学校に納める納入金は、学級担任が集めて、事務室の窓口に持って行くのがならわしになっていた。

月末になると担任がみんなに連絡し、一定期日内に持って来させるのだった。持って来ない生徒は、ほんとに忘れている一部の生徒を除いていつも決まっていた。

「忘れました。」ということばの中に、「納められないんです」という訴えをこめていることがわかるだけの感性は備わっていたのだろう。それ以上、追及することはしなかった。むしろ、「心配するな、納められる時でいい。そうお母ちゃんにいうとき。」そう言って、事務所には何とかごまかしていた。しかし、何か月か滞納になると、事務所から、何度も催促がある。板ばさみになって困ることもしばしばだった。時折り、給料袋の一部をさいて、つじつまを合わせることもあった。

時々、学校を休むKという生徒がいた。たまに学校に顔をみせても、口かずも少なく、友だちや先生に声をかけられた時だけ口もとにつくろうような笑いを浮べる気力のない生徒だった。一年間、この生徒を担任したわたしは、この生徒が気がかりだった。たまに登校した折をつかまえては、あれこれと話しかけた。ずいぶん前のことなので記憶がうすれてしまったが、学校をよく休むことの理由だとか家族のことだとか友人のことだとか、担任なら、だれでもおこなう、ありふれた話だったように思う。けれどKは、どんなにわたしが近づこうとしても決して心をひらかなかった。なぜこうなのか気がかりで気がかりで仕方がなかった。

昼食は、たいてい教室で子どもたちといっしょにとっていたが、ふと、Kがいないことに気づいた。それから注意してみていると登校した日でも昼食時にはたいてい教室にいないことに気づいた。たまに教室にいてもまわりの友だちの談笑の中にいることはなくひとり校内で販売しているパンをだまってかじっているのだった。ある日の昼食時、わたしは、校庭の片すみに何をするでもなくたたずんでいるKに話しかけた。なぜ教室で食事をしないのかというようなことから話しかけた。なかなか口を開かなかったが、ポツリと「弁当忘れたんや」と言った。予想したとおりだった。その日は、売店からパンを買ってきて、「先生も、これから食べるとこや、おまえもひとつ食べんか。」こんな会話をかわしただけで、それ以上は何もふれなかった。それ以上、ふみこんで聞けなかったのである。家庭の貧困が、彼の生活に暗いかげを落していることは痛いように伝わってくるのだった。何度かの家庭訪問で、彼のおかれている状況はよくわかった。彼には障害をもった妹と、弟2人がいた。父は、2年ほど前から家を出て、どこかへ行ってしまったという。今は母が靴の底皮のかたぬきする工場に勤めているということで、子どもたちの面倒は、Kがみているのだった。家庭でのKは、学校での彼の姿からは想像もできないほど、いきいきと、てきぱきと家事のこと、妹たちの身のまわりのことをやってのけるのだった。「たいへんだね」と声をかけると、こんなことは当然だといわんばかりの態度で「仕方ないんや。お母ちゃんは朝早うからおそうまで働いてんやから……」と答える。その姿にわたしは、なにやら、ほっと救われたような気持ちになって帰るのだった。そうこうしているうちに彼は少し私にうちとけた態度をみせるようになった。それでも彼は、家を出た父のことや、妹たちのめんどうをみるしんどさ、学校に休まず通えない不満など、ぐちめいたことはひとことも言わなかった。

こんなKに対して、わたしは、なんとか、一日でも多く、登校してほしいとねがった。そのために学校での勉強のこと、行事の連絡、学級通信など、わたしの私信などを友だちを通して届けさせるなど、担任なりの努力を続けた。二年の夏休みを終えたころからKは学校に来なくなった。何度、家庭訪問しても、Kはわたしに会おうとしなかった。母親と話しこんで何とか登校させるよう説得した。母親も、中学校だけはがんばってほしいとKに説得しているんだが……となげくのだった。半月ばかり通い続けたろうか、ようやくKがわたしの前に現われた。〈先生なんかに今のぼくの気持ちなんかわかることはない。もう二度と家に来ないでくれ。学校なんかぼくに必要ない。ぼくが働いて、お母ちゃんが妹のめんどうみれるようにしてやりたいんや。先生、ほっといてくれ。〉

こんな意味のことばを激しくわたしにぶっつけるのだった。そのとき、わたしは、むらむらっと腹が立った。とっさに手がでてKのほっぺたを叩いていた。一瞬、Kはたじろいでわたしをじっとみつめていた。

〈甘たれるな。おまえが今苦しいのはわかるが、今、学校やめて働いてどうなるねん。お母ちゃんだって、家にいて妹のめんどうみたいと思う気持ちをがまんしてがんばってるのやないか。今、勉強せんと働いたかてな。今はちょっとは助かるかもわからんがずっとこの先、どうなるねん……〉

〈貧乏に負けるな、がんぱれ、今、苦しいところをくぐったら、必ず、おまえの道は開けるんだから……〉

こんな気持ちでこの間、Kに接していたわたしは、わたし自身の生いたちの中での「貧乏の苦しさ、みじめさ」の共感があった。だからこそ、Kに負けてほしくなかったし、自分がくぐり抜けて来れたんだから、おまえも、あまったれることは許さない。こんな気持が、Kに対する態度になっていたのだ。

中学校、高校時代のわたし自身の生活がまさに苦しみの連続だった。心臓性ぜん息の持病を持つ母は戦時中の無理がたたって、病状は重くなるいっぽうだった。わたしが学業を続けること自体が無理な状況だった。この間わたしは夜店の露店のいか焼きの屋台をひっぱって家計を支えてきた。なんどか行きづまって退学を決心したこともあった。その時、私にひとりの教師が全身をぶっつけ退学を思いとどまらせてくれた。わたしに教職を選択させた強い感動を与えてくれた教師だった。このような自己の体験が、難波中時代のわたしの教師としての歩みを方向づけていた。

Kと何時間ぐらい語ったろうか、Kは、自分の気持ちをぼつぼつと話してくれた。二年生の一年間はなんとかぼつぼつでも登校していたKは三年になって長欠になってしまった。それきりになってしまったが、わたしの難波中時代の苦い体験である。

 

3.「誠実さ・善意・同情」その意味すること

難波中時代の教師としてのわたしの姿勢に一貫していたのは、ただ、まじめに誠実に、生徒の気持ちに添って教育をすすめようということだった。このことは現在も変わりない。ただ当時は自覚できなかったのだが、結局のところ、貧弱な、自己の経験の枠の中からの考え方をものさしとして生徒指導にあたるというせまい経験的な教育にしかすぎなかった。

難波中学に学んでいた当時の私の教え子たち、とりわけ被差別部落の生徒たちの背負っていた問題が、このような姿勢では、見えるはずはないし、Kが長欠に追いこまれていく部落差別の本質が見えるわけもなかった。月給袋の一部をさいて、一時しのぎはできたとしても、それは結局のところ自分のひとりよがりにすぎず、何の解決にもつながらないのは明白だった。そしてそのことに気づいたとしてもこれ以上は教師の仕事ではない、どうしようもないんだ。'政治の力で解決していく以外にどうしようもないんだ。ということで問題の本質から眼をそらしてしまうことになっていた。

 

4.「授業」と「目の前の子ども」

難波中時代の教師としての自分を総括する上で、わたしが社会科の教師としてすすめてきた「授業」の間題を避けるわけにはいかない。歴史学習をふりかえりながら、このことにふれてみよう。歴史を教えるねらいが、自ら生きる生活との深くかかわって歴史をとらえて、科学的な社会認識の能力や態度を育てていくことにあることはいうまでもない。AKや何人かの被差別部落の子どもたちがいた難波中学で、その子どもたちが歴史学習の中で主体的に何を学びとるのか、まわりの子どもたちが何を学びとるのか、そのことが、わたしの「授業」にとって最も中心的な課題であった。当時(1960)のわたしの教材研究ノートに「第1次世界大戦と日本」の単元を指導した時の、記録がある。ずいぶん古いノートだが当時の私の「授業」をみていくのに参考となるものだと思う。

〔米騒動を指導の中にどう位置づけるか指導のねらい〕

              1918(大止7)の米騒動は、日本の歴史始まって以来の一大民衆蜂起といえる。この視点が重要。大逆事件から冬の時代、第一次大戦へとひっそくしていた民衆運動は、護憲運動を経て大正デモクラシーの洗礼を受ける中でしだいに高まっていく。このような時に民衆の爆発的な立ち上がりとして米騒動が起こる。

              一方このような民衆の、生存権としてのたたかいに対して、当時の支配層はどのように対応したか。史実に即して具体的に指導することが重要だ。

この記録の中には、「目の前の子ども」つまり、「被差別部落の子ども」や「まわりの子どもたち」とのかかわりの中での「授業内容」の構成や視点が全くぬけ落ちている。

民衆の側からみた歴史発展のとらえ方、文化のとらえ方、支配層とのかかわりの中で社会をとらえていく能力だとか、何をどのように教えるのかについて、当時、授業研究にかなりのエネルギーをわたしは費やしていた。にもかかわらず、部落問題とのかかわりの視点で、子どもたちのおかれている生活現実の中で、「米騒動」という歴史事象を指導できていなかった。

米騒動の民衆蜂起それは高物価・高米価にみる政治・社会の矛盾のしわよせをモロにかぶる都市貧民・貧農々ど差別と抑圧にさらされた人々が主体となった抵抗運動である。この問題を科学的に認識させようとするときに、被差別部落に視点をすえてとらえていってこそ米騒動の本質に迫ることになる。それでこそ「目の前の子ども」の生活現実に深くきりこんでいく授業となるはずであった。

結局のところ、当時のわたしの歴史の授業は、「現実社会の認識、そこに生きている民衆」とのかかわりぬきの知識学習であった。

長欠に追いこまれていったKをとりまく生活の現実に部落差別の問題があった。「目の前の子どもを見るたしかな眼」を持たなかった、わたしに、Kやその親が心をひらくはずもなかったし、そのしんどい状況から、立ちあがり、解放の担い手として変革していく子どもが生まれようもなかった。Kやその他の何人かの、部落差別を背負う、しんどいなかまのことを理解し、支えていくような学級集団が育つはずもなかった。

 

5.現実認識を阻んだ自己の内なるもの

難波中学時代の8年間、なぜ、わたしには部落問題がみえなかったのか。わたし自身が受けてきた戦中・戦後の公教育のなかみが問われることはいまさらいうまでもない。そのこととは別に、わたし自身の生き方の問題の中に本質があるように思われる。Kや何人かの部落の子どもたちの姿の中に,かつて貧乏に苦しんだ自分の姿を見、月給袋から徴集金を何のためらいもなく納めていた自分の行動は、理くつ抜きのものであった。けれど、「なぜ貧乏なのか」「なぜ貧乏でいなければならないのか」「なにが貧乏にさせているのか」に眼を向けていく、社会認識の生活態度や能力を自己の内にたくわえていなかった。

わたしの父祖の地である徳之島の生活条件のきびしさについては前号(むくげ67)に少しふれた。そこで生きられない多くの島の人々は、大阪を中心として生活の基盤を求めて移り住んだ。「沖縄人、奄美人おことわり」という露骨な差別の中で不安定な職業しか得られず、いきおい多くの人々の生活は貧乏だった。そういう中で、郷里出身の人々のむすびつきは固かった。生活をお互いに扶助しあうことは生きていく上で欠かせないものであった。教育に期待をかける親のねがいは、結局のところ、貧乏や差別から脱出するためのものであった。自分の子どもが、内地で社会的な地位を得ること、それは親にとって「故郷に錦をかざる」何にもまさることであった。そしてそのことは徳之島という離島が日本の社会の中で市民権を得ることにつながるのだった。

「進、おまえは、しっかり勉強して、内地の人らに負けんようにがんばらなあかんで、人間は貧乏でもな、勉強して偉うなったら、ばかにされんようになる……」こう口ぐせに言っていた父母は、自分たちが受けてきた差別や苦労を語ろうとはしなかった。ただ一心に子どもたちの成長を期待したのである。大阪に来てからは、島ぐち(島の方言)を使わず、子どもたちにも使うことを禁じた。標準語を一日も早く身につけさせようということだった。事実、島で青年時代まで過して内地に出た人々は、ことばの上でも劣等感をもっていた。このように島から移り住んだわたしの故郷の人々は、内地における生活の安定をただ、ひたすらにねがいつづけたのである。このような生いたちは、わたしの内なるものを形づくる基礎となっていた。

富める者、力を持つもの、地位のある者に対する異常なまでの執着、それは、わたしの父母や島の人々の共通した生活態度である。一面、不正を憎み、差別をいきどおり権力者の横暴に人一倍の腹立ちと抵抗を示すのも共通した生活態度であった。

貧乏から脱出して、財を築いたもの、社会的な地位を得た者の名誉欲も異常なものがある。それは、島の学校とか、島の行事だとかに寄附という形で表わされる。

このような環境で育てられたわたしは、父祖の地に生きる人々それにつながる人々の生活現実がどうしてつくられてきたのかを考えるよりは、父母や島の人々が期待をかける生活の安定や、社会的な地位や、名誉を求めていく生活態度が身についていたのだと思われる。

戦後のほんとに苦しかった中学・高校時代、いか焼きの屋台を引っぱりながらの学業に耐えられたのも、父母や、島の人々の生きてきた苦しい生活の歴史を肌で感じとっていたからだし、そこから脱出したい、安定したいとねがってきた島の人々のねがいが、しみついていたからである。

難波中学に教職の道をふみだした当時のエネルギーの根源もそういうところにあったように思う。

自分が、抑圧され差別されて生きた父母や、父祖の人々につながるひとりであり、そのことを自覚して生きるつまり真のねがい、抑圧や差別をつくってきた者やその社会の構造にたちむかうことそういう生き方に気づかないまま、安定した収入を得、教師という地位に安住し、平和な家庭を築いていくうちに、自己の内なるものが、現実社会の認識する眼をくもらせる方向でたくわえられていったように思われる。

 

6.まわりの教師たちとのかかわり

1955(30)かち1960年代にかけては、教育委員会法の改正、勤務評定の実施、道徳教育の特設、教育課程の改訂、生活経験学習から系統学習への転換などにみられるように、教育行政、教育内容方法などあらゆる分野でわが国の教育が転回した時期であった。占領下という特殊事情下で発足した戦後教育が、講和条約の締結を経て、独立日本にふさわしい教育をという中央政府の意図でもってすすめられた教育改革の時期であった。教職員組合は、この中央の教育改革の意図を、新憲法下の戦後教育の理念と制度を空洞化するものとして、組織をあげてのたたかいを展開した時期であった。ちょうどその頃に、わたしは難波中学校に赴任した。そういう中で、私は、教職員組合に対して、まわりのなかまに対,してどういう考えを抱くことになったのか、次回はこのあたりにふれてみたい。


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