在日朝鮮人教育にかかわる私の原点(5)
(『むくげ』72号1981.2.25より)

稲富 進

 

この原稿にとりかかろうとしている手もとに、「むくげ大阪の在日朝鮮人教育10年の歩み」(考える会機関紙170号の復刻版亜紀書房刊)が届いた。復刻版であるので、その折り折りの運動の状況なり、そのなかで苦闘した多くのなかまの足跡が、なまの形でよみがえってくるようで胸に熱いものがこみあげてくるのを押えがたい。読み返しながら、私なりの「考える会10年の総括」をしてみようと思う。私なりのとわざわざ断るのは、5回にわたる連載が個人史を通して在日朝鮮人教育を考えていこうとする企画であり、ずっとそういう位置でこれまで書いてきたそのことを最後まで貫きたいと思うからである。

 

1.旗上げ暗やみの中での入ロ探し、その不安

「教育労働者としての自覚と責任を明確にしよう」との決意高らかに1971731日に「考える会」の旗はあがった。現、大阪市教組南大阪支部書記長市川正昭氏ら教組関係者や、城陽中学校で実践をともにした友人たちの説得でわたしは旗上げしたばかりの「考える会」の会長に就くことになった。それは必然のなりゆきというよりは、当時の大阪の教育界の状況が生み出した出会いがつくり出したものだった。

越境問題に端を発し、部落解放同盟から戦後民主教育のなかみを問われた教育界は、教育行政はもちろんのこと、教育現場も、教職員組合も、それぞれに自らの施策や実践や活動の見なおしを迫られていた。

促進学級を軸にした教育実践をすすめていたわたしたち城陽中の教師たちは部落解放の教育の視点で自分たちのそれまでのとりくみの見なおしをすすめていった。その発展のなかで、A子の告発を受けとめていく、わたし自身の変革がはじまつたし、「考える会」発足のきっかけとなった大阪市立中学校長会の差別文書を指摘できる教師の眼も培われていった。大阪の教組運動の中心的な担い手である市川氏や五島氏、岩井氏など教組関係者にとっては、「越境問題」そこにみる部落差別の集中的な矛盾に娘をそらせてきた教組運動の質を問いなおす自らの課題に直面していたのだった。そして何よりももとめられていたのは、教育現場に平和教育や部落解放教育や進学体制の中で切りすてられる子どもたちの問題に真剣にとりくんでいく実践者の結集を図るというしごとであった。それはまさに、「教師の労働者性と専門性の統一こそ、これからのわれわれの課題だ」と呼びかけた当時の日教組宮之原委員長のそのことばに応えていく教組のいそがなければならない課題でもあった。このような、それぞれの立場での課題意識と、校長会差別文書追及の過程での、教師としての自覚や民主教育への熱い情熱など、市川氏たちとわたしとの間には、それぞれに歩んだ道は違っていても通いあうものがあった。

こういう事情のもとで、在日朝鮮人教育運動の担い手としての歩みが始まった。歩みははじまったものの、自分にとっては踏みこんだことのない未知の世界にひきずりこまれていくような不安がつきまとっていた。今、思い返してみてもその不安は当然のことであった。教組運動や教組教研活動や市民運動などおよそ運動と名のつく活動とはほとんど無縁のところでそれまで生きてきたのだから、朝鮮問題や在日朝鮮入問題についての知識や全体状況についての理解はほとんど零に等しいものだった。わずかに、A子の告発を受けて以後の私立高校入試差別撤廃を求めた運動と校長会差別文書追及のなかでのわずかな体験だけからの出発だったからである。

事実、発足のころ「考える会」の活動方針や具体的な活動計画などを討議していくための運営委員会では、どのようにとりまとめていけばよいのか、とまどうばかりであった。

「朝鮮人教育を考えていく場合、入管体制にみられる権力の共和国敵視政策、排外・同化政策を視野に入れた運動が重要だ」

「階級的視野にたって朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮の自主的平和統一の運動に連帯していく運動を積極的に推しすすめるべきだ」

「民族教育よう護の立場にたって、自主学校との連帯を強化すべきだ」

「日韓条約にみる政府・独占の意図を紛砕しなければならない」

こういった、学生運動や政治運動にみられるような意見や、

「部落解放の視点から、在日朝鮮人差別に対して闘うべきだ」

「教育労働者としての生産点である教育の場の課題を追求しなければならない」

など、部落解放の立場からの意見など実にさまざまな意見がふき出してくる。

入管体制とか法的地位協定、在留資格などなどわたしにとっては、何のことか理解のできないことばを使った意見がポンポンでてきて立ち往生することがしばしばだった。そのような雰囲気のなかで意見の一致をみることはたいへんむずかしいことだった。投げ出したい衝動に耐えに耐えながら、運営の原則をつくりあげることにわたしは努めた。

結局、A子の告発にこだわったわたし自身の教師としてのありようを大切にしていくことそういう姿勢で運営委員会をとりまとめていくことを心に決めた。投げかけられる問題がどのような内容のものであっても自分たちの教育現場の子どもたちの教育課題としてどう展開していくのか実践課題として話しあっていくこと。抽象的な政治論議だけに終わることのないようにすることだった。

また、少数意見であれ、みんなで徹底して話しあうこと、決して切りすてないこと。さらにまた、運動の思想は歩きながら実践しながら創っていく。試行錯誤を恐れず、主体的な力量をつけていく。話しあいが紛糾したり、いきづまったりすることもしばしばだったけれど、お互いが見出してきた運動の原則はこのようなものだった。

このような運動の方向をだいじにしていくため、活動をはじめたばかりのころは、啓蒙的なシンポジュームを月に一回程度開いて、会員をひろげることや、実践課題をできるだけみんなのものにしていこうとした。

教室の多くの日本人の子どもたちに混って勉強する朝鮮人の子どもたち。その朝鮮人の子どもが通名(日本名)を名のり、日本の教育を受けている。日本人教師のほとんどがそういう事実に何の疑問ももたないで教檀にたっている。これでいいのだろうか。こういう教育現場を見つめなおしていこう。日本人の子どもたちに埋もれて生きることを強いられている朝鮮人の子どもたちを「外国人」として「他民族の在外公()民」として見ることができない日本人教師の意識を考えていくことを中心にしながらシンポジュームを継続した。

暗やみに入口を探すような試行錯誤の連続だった。

 

2.昂揚と停滞運動にいのちをふきこんだ長橋小民族学級のとりくみ

長橋小民族学級の実践と運動は、草創期の「考える会」を中心とした大阪の在日朝鮮人教育運動にとって重要な意義をもっている。市川正昭氏は「「考える会」10年への一感想」という一文のなかで次のように述べている。

「長橋小のとりくみはそれまでの日朝友好親善の運動や、いわゆる民族教育の擁護といったものとは異質の大きな飛躍でした。それは何よりも、当時の大阪の教育界をゆさぶっていた部落解放の教育に直接ねざしつつとりくまれたものです。つまり、被差別部落の子どもたち一人ひとりの生活を直視するとともに、子どもたちを差別に対して集団としてたち上らせること、と同時に、被差別部落出身以外のどもたちの間に熱い連帯をつくり出そうしたとき、そこに在日朝鮮人の子どもたちが坐っていたという事実から出発します。朝鮮人の子どもが大量に公立学校に在籍しているとはどういうことか。それも「通名」(日本名)でくらしていることをどう考えるかが出発点でした。

部落解放教育に迫れば迫るほど、長橋小の教師たちは目の前に坐っている朝鮮人の子どもの問題を避けて通ることはできなかった。

「部落の子どもは補充学級に入って勉強している。同じ差別を受けている朝鮮入がどうして補充学級に入れないのか。朝鮮人を守る会もつくってくれ!」こう訴える朝鮮人の子どもの訴えをどのように受けとめていくのか。そういうところからの出発だった。「考える会」のシンポジュームでの討論、学習、さらにまた現場での討論、やがてそれは民族学級開設を要求する運動へと発展した。19721028日「考える会」は、西成五校でつくられた「公立学校で民族教育をすすめる会」との共闘で大阪市教委に対し、長橋小の実践を保障し、それに伴う予算措置をおこなうよう求めたのだった。

197274日、南北朝鮮自主的平和統一に関する共同声明が、発表され、統一朝鮮への期待が盛りあがる気運のなかで、長橋小民族学級開講への喜び唇頂点に達していった。

昭和471122日休)、朝日新聞掲載

胸張って……「民族学級」開講

「わたしたちは朝鮮人です」大阪市西成区の市立長橋小学校(樽谷鉄夫校長、児童1365)21日、朝鮮人児童、父母、担任教師が協力しあって「民族学級」を誕生させた。誇らしげに、あけっぴろげに宣言する児童。地域と学校がしっかり結びついて朝鮮人の子どもに自国語と歴史を教え、民族意識を育てる試みはめずらしい。民族教育は24年、自主学校閉鎖令で廃止されて以降、公立学校では、ほんの一部の学校で細々と続けられてきたが、同校の学級設置は民族教育を再興させる大きな原動力になると財団法人朝鮮奨学会では評価している。

このような解説とともに満身に喜びがほとばしりでる子どもたちの表情をとらえた写真が掲載され、関係者はよろこぴに湧いたのだった。大阪市教委の当時の立川指導部長も「特別教育活動としての民族学級を評価し、運営費の市費負担を検討中である」との考えを明らかにしていた。ところが開講後3回の授業を迎えた時に事態は急変した。講師派遣の窓口として心を配り、なかだちのしごとをしてくれていた朝鮮奨学会から講師団を引きあげなければならない事情になったという連絡があり、民族学級運営ができなくなったのだった。

「長橋小での民族学級が、74南北共同声明を基調としたものであること、当然講師も朝鮮籍の方を含んでいること」そのことが原因となった。わたしたちは、歴史的な74声明に心からよろこび、自主的平和統一を支持する立場を公教育の場で在日朝鮮人教育をすすめるただひとつの立場だと考えてきたし、このような理由で日本の公教育に干渉してきた韓国領事館や民団サイドの圧力に追ずいした大阪市教委の態度に怒りを爆発させた。それは、当時、長橋小の民族学級のとりくみを支援し、学ぼうとしていたすべての教育労働者の怒りをひとつにし、運動への高まりは日ごとに増していった。事態をみすごすことはできないとする多くの現場から、大阪市教委追及の行動を求める声はうねりとなって届いた。「考える会」が呼びかけた緊急行動に200名を越える教師たちが集り、12月から1月にかけ、深夜まで続く、長い時間の交渉を何度となく繰りかえすエネルギーは燃えに燃えたのだった。

いったんわれわれの要求を受け入れ、現在担当する5人の講師を認めた市教委は、さまざまな形で、執ように続く妨害や抗議という名を借りた韓国民国サイドの圧力に屈して、わたしたちとの合意事項を闇に葬り去ろうとした。

民族学級の開講を力づくでも阻止するという韓国民団サイドの圧力が長橋小の現場を混乱させた。合意事項の線に沿って民族学級の灯を守ろうとするわたしたちの市教委追及の行動は、行動を継続してあくまで闘うか、現場の混乱を避けて収拾すべきか。その選択に揺れ、考える会運営委員会では大激論となった。

ここで運動を撤収することは、結果として、韓国サイドの一方的な政治路線を日本の公教育の場に許すことになる。南北の自主的な平和統一をねがう朝鮮民族の悲願をふみにじることになる。日本の公教育の場での統一的な立場を守りきるためにも、市教委追及を中断することはできない」

「これ以上、正面きった追及を継続しても、これまでの日韓関係の癒着ともみられるつながりからみて、わたしたちとの合意事項が守られることはまず期待できない。それに、子どもたちの前で、混乱を引きおこすことは教育上好ましくない。いったん、市教委追及を中断すべきだ」

こうした内部の意見の対立は、当時の状況からみて、それぞれにまっとうなものであり結論をだすのに悩み抜いたものだった。

結局は、長橋分会のだす結論に従うことになり、それ以後、長橋小は民族学級の実践を表面に出さないで、事態が鎮静するのを待って、教師集団の創造的なくふうによってとりくみを続け、発展させることになった。

長橋小民族学級の実践を保障させる運動はその当時、獲得されなければならない民族講師の雇用や運営予算を全然措置させることができないまま、長橋小分会の教師集団に、重荷を背負わせたまま中断しなければならなかった。けれど、この実践と運動は、「考える会」を中心とする大阪の在日朝鮮人教育運動のなかみにいのちを与え、運動を昂揚したということでは画期的なできごとだった。シンポジュームで、各現場の実態やとりくみが話し合われるたびに、まわりの日本人教師の排外にみちた意識や家庭訪問での在日朝鮮人の親たちからの不信のことばに頭をかかえこみながらも、こつこつと地道なとりくみをはじめかけていた教師たちに長橋小の民族学級の実践と運動は活力を与えたように思われる。

ひとりひとりの子どもの徹底した家庭訪問、差別に負けず祖国に誇りをもつ子どもに育てることがたいせつだと訴えかける。きびしい差別の中で生きるアボジやオモニの生活を知りそれを学級指導の教材としていく。朝鮮人の子どもたちに、授業や学級会活動や民族学校訪問など、いろいろな機会をとらえて祖国や民族の問題に向きあわせる。朝鮮民族にとっての意義ある記念日をとらえた集中授業の実践をすすめる。このような、実践に学び、新たなとりくみが各地の現場にひろがっていった。

「考える会」運動の草創期の状況は、とりくもうとする芽はあっても実践の名にふさわしいとりくみは育っていなかった。長橋小の民族学級を保障させようとした運動が、条件獲得ができないまま中断しなくてはならなかった主な理由は、ここにあったように思われる。教育現場の混乱を避けるという理由はあったけれども、それだけが市教委追及の中断を決めた真意ではない。民団を中心とした韓国サイドの抗議や妨害に対して民族学級の実践が、他地域での実践とともに地域の親たちをも含めて、民団サイドの人々にじゅう分に説得しきれるだけの内容と成果を持っていなかったからであった。

「統一を支持する在日朝鮮人教育」というわたしたちの教育のなかみにしても、親たちを含めて民団の抗議に対し説得できるじゅう分なものを持っていなかった。

わたしにとっては、運動のリーダーとして交渉の先頭に立つことは初めての体験だった。交渉慣れによる政治的な駆け引きや、妥協点を探る事務折衝などという器用さもなく、ただ交渉に参加した大衆のエネルギーを大事にしながら、交渉内容の筋を曲げることを固く拒んだ。今ふりかえると、わたしのその時の純粋な気持ちと生一本の性格が、あれほどの行政との紛糾場面をつくり出したのかも知れない。妥協点を探ろうとするわたしに対する個別の折衝にいろんな人が訪れた。かたくなにそれを拒んだ。立場上やむを得なかったとは思うけれど、その後の人間関係を修復するのに時間もかかったし、修復できないのではないかと思うほどの亀裂までも生んでしまったという苦い思い出も残っている。けれども交渉までの準備交渉の過程でつくられていく、目的意識を同じくするなかまたちとの共感それは他では味わうことのできなかった体験だった。

「運動が教育する」ということの意味を知ったのもこの時だった。目的意識とそれへむけての共同作業、実践をともに持ち続けるとき、なかまに対する信頼が固いものになっていく頭の中だけで理解していたことが確信をもって湧いてくるようだった。この体験を土台にしながらその後の「考える会」の活動をすすめた。

1973年〜1975年の「考える会」は、長橋小民族学級に学びながら、それぞれの学校で実践の根をおろそうと、「本名を呼び名のる運動」を軸としながら、シンポジューム、民族差別追及を通して活動を昂揚させた時期だった。

朝日テレビ差別事件の追及(「二つの名まえで生きる子ら」はこの経過のなかで誕生)大手前女子短大入試差別、中川幼稚園入園差別、(1974)に対する追及、在日朝鮮人教師雇用要求(周さんの進路保障問題)(1973)など次々おこる民族差別の追及を通して在日朝鮮人教育の問題を広く社会に、また教育の場に提起していった。運動の道すじで、自分たちが学び、次の課題を確認しあったのだった。

197410月の大阪市立深江小学校長の差別発言を追及した運動は、日本人に巣食う民族排外の意識の根強さをいやというほどみせつけられる思いがした。

「日韓併合は遅すぎたくらい」「朝鮮人児童に教育的配慮はいらない」「日本人の教育も十分できないのに、外国人教育のようなよけいなことをやる必要はない」というような発言が公式の学習会の席上でまかりとおるところに深い意味をとらえて、校長会、大阪市教委追及の声が日ごとに高まり、長橋小問題以後再び迎えた大きな運動となった。この追及とともに「考える会」ではこの事件を反面教材として教育現場の問題としてとらえかえすことがたいせつだと訴えていった。

次々と起る民族差別を追及する運動を通して「考える会」の活動は昂揚していったけれど、教育現場での「目の前の子ども」にむけての教育実践がすぐにひとつの形として見えてくるほど運動は平坦なものではなかった。

朝鮮半島では、朴政権下での人権抑圧が国際間の緊張を増し、197388日に起きた金大中氏強制拉致事件は日本と韓国との緊張関係をピークにしていった。この影響を「考える会」の活動もまた、もろに受けたのだった。「金大中氏救出のための活動」が緊急に提起され、抗議集会、街頭署名、ビラまきなど、わたしたちが先頭にたって積極的に活動した。韓国政府の政策を受けて活動する民団は、長橋小民族学級問題以後、わたしたちとの関係を冷たいものにしていたが、そのあといっそう緊張させる結果になった。「考える会」集会へのあからさまな妨害、「朝鮮」「朝鮮人」という呼称を認めず、「韓国」「韓国人」と呼称せよとの市教委への申し入れ、研究集会での要求などの具体的な抗議・妨害活動としてわたしたちの前にたちはだかった。民団を中心とした教育現場への抗議が強まり、ようやく教育実践の芽が育ちかけていた現場をいしゅくさせてしまった。

1976年から77年にかけては、わたしにとって「考える会」を運営していく上で最も苦しい時代だった。カンパニアやシンポジュームでの学習は自らの教育現場での実践へ移されることが、「考える会」に集まる活動家の使命であった。運営委員ひとりひとりが教育現場でのとりくみのリーダーとしてがんばらなければ、すぐれた実践が生まれようがないのである。教育現場や地域の活動にへばりついていった活動家は自然のなりゆきとして運営委員会での役割りを分担できなくなるのだった。

決定しなければならない重要事項の会議を開いても、運営委員会がなりたたないことがしばしばだった。代表としてのわたしの不安は、この時ピークに達していた。限られた教育現場のとりくみだけが見えていて、実践のひろがりを肌で感じることのできない不安といらだちだった。「現場に這いつくばって実践をつくることこそが、運営委員の仕事なのだ」と自らに言い聞かせながら耐えたのだった。

運営委員会が運動のセンター的な機能をじゅう分に果せず停滞していたころ、教育現場では一歩一歩、地道な実践が積み重ねられていたのだった。

 

3.課題と展望……見えてきたもの

一昨年12月、大阪市外教主催の民族音楽発表会が、大阪市西区の子ども文化センターで開かれた。大阪市内の小・中学校でとりくまれている民族学級や朝文研、子ども会活動の成果を発表する場であった。朝鮮のうたや舞踊や民族楽器の演奏、また部活動の報告など出演者は300名を越え、参観者は600名におよぶ盛会となった。緊張した顔、喜びにあふれた表情、群舞するたくましさ、熱気あふれた会場の雰囲気に、胸のうちにあついもののこみあげるのを押えることができなかった。それぞれの現場の中で朝文研を組織し、活動のなかみを創り出していくことそれは簡単にはいい表わせないたいへんなことだった。舞台に立って歌い踊り、話す子どもたちの姿には朝鮮人としての自覚や誇りに満ちた気迫が感じられた。けれど、ここまでくるのにはそれぞれの子どもの内面の葛藤やたたかいがあっただろう。その子どもたちに積極的に向きあっていった顧問教師や学級担任、指導にあたってきた民族講師たちの創造的な教育の営みと粘り強いエネルギーがその成果を生みだしてきたものである。昨年12月には、第二回の民族音楽発表会が開かれ、出演者は400名、参観者は1000名を越えていた。

「きのう、ぎりぎりまで出演できるかどうか心配だったんです。集団としてまとめていくのがたいへんなんです……」「考える会」の運営委員であり、現場で朝文研の実践をすすめているOさんの話を聞きながら、自らの生産点での実践目の前の子どもにむきあうそのことを根っ子にすえて続けてきたお互いの運動のありように自信をもつことができるようになった。

わたしたちは、10年にしてようやく日本の公教育のありようを在日朝鮮人教育の視点からとらえることができるようになった。

朝鮮人の子どもが民族をくらまさず自立して生きる生き方を励ます、日本人教師は、きびしい蔑視や偏見や差別のしくみのながでたたかう朝鮮人の子どもの不安や苦しみ、決意をわかりあえるような日本人の子どもの成長をめざす教育にむけてとりくみをいっそう深めていかなければならない。

すでに、それへむけての歩みは大阪市外教が中心となってとりくんできた。

「朝鮮を正しく教える」このスローガンは目新しいものではなく教組教研のお題目のようなものであった。けれど、日本人の子どもたちの朝鮮認識を正しくしていくことの重要性は叫ばれても、何をどんなに与えていくのかという教育内容、方法へのアプローチはなかなかすすんで来なかった。

日本帝国主義支配の歴史をみるにつけ、36年間の植民地政策を中心とした部分的な日朝関係史の指導内容が強調され、全体像をつかませることができない誤ちや、帝国主義政策を強調するあまり、朝鮮民族の低抗運動や主体的な在日朝鮮人の民族運動の側からの視点を見落したりしてきたこともあった。民族の文化、現代朝鮮の具体像、在日朝鮮人の主体的な民族教育や民族差別撤廃運動の姿など明るい朝鮮に常日ごろから子どもたちが接することのできる教育内容をつくりだすことなど、とりくまなければならないことが見えてきた。大阪市外教の「サラム生活編・民話音楽・絵本」の編集・発刊は、このような実践課題に迫るとりくみであろう。「祖国統一をねがう民族の心」をだいじにしていく教育のなかみづくりがようやく見えてきた。

「考える会」はこれまでも進路保障にかかわる民族差別に対してとりくんできたけれど、まだまだ差別構造の壁はあつい。現在すすめている大阪府の国籍条項撤廃の運動をより具体的な進路保障の運動としてすすめていくためには、教育現場なかでも高校部会を中心とする教師たちの現場からのとりくみが運動のエネルギーをつくらなければならない。

教職員組合運動へのアプローチもまた10年間「考える会」が一貫して持ち続けてきた姿勢であった。けれど、現在、大教組教研のなかみにわたしたちの実践が反映されず、当然のことながら日教組教研に反映されない状況がずっと続いている。日本の民主教育を守っていかなければならないわたしたちの組合をどう再生することができるのか。さしあたって、大阪における教研活動の結集を考えていく時期でもあると思う。

 

4.連載を終えるにあたって

「むくげ67号・68号・70号・71号・72号」の5回にわたって、「在日朝鮮人教育にかかわる原点」を書いてきた。個人史ではあるが、教師として歩みはじめた昭和30年一50年代の、人生としての中心的部分にかけたひとつの生き方のなかに教育界の動向なり、運動の状況なりを正確に伝えたいとねがってきた。

大阪大学の扇谷教授と話をする機会があった。現代における人間疎外の状況に話がおよんだ。今、医学部の教授たちの悩みは学生にどのようにして「メスを器用に、正確に使いこなせるようにするか」ということだそうである。また、今の学生たちはこれまで学習して修得した知識で表面の現象や事象を理解することはできるがその背景にある因果や相互の関係をとらえていく学力や、人間にとっての学間の意味をとらえていく根源的な問題に迫まろうとする態度が非常に弱くなっている。そういう角度から大学の教育のなかみが今問題になっているそうだ。教育の荒廃がいろんな角度から指摘されるが、現代社会の人間疎外の状況が子どもの姿を通して映し出されているとみなければならない。上福岡三中で、林賢一君が自殺に追いこまれた事件や大阪の高石中学校で起きた中学生の自殺など、人間疎外の教育の象徴的な事件としてすべての教師が深くみつめてみなければならない。

学級集団での「なかまづくり」や「支えあい」といってみても中学3年になれば生徒の将来への希望や意志とは無関係にランクされた高校別に点数による序列によってふりわけられていく。「一流高校」をめざす成績序列競争という渦の中に抑圧され、成績への劣等感や進学への不安を弱い立場の友人をいじめることで解消しようとする傾向が目立ってきている。弱い立場、重荷を背負ったなかまに対する抑圧という形で自らの抑圧からのがれようとする姿をわたしたちはしっかりととらえなければならない。「教育の営みは子どもの発達を援助することである。効率的な知識のつめこみは子どもから自ら考える力を奪いとる。一人ひとりの子どもの成長を阻害しているものを見つけ出しつぶされずに、それに立ち向う力を培うことこそ教育である。そしてお互いの個性を尊重し、異なった行動様式を認めあえる集団づくり、少数意見を切り捨てない仲間が根っこになる。私たちは朝鮮人の子ども、部落の子ども、学力の保障されない子どもの立場で日本の民主教育を捉えなおさなければならない。(中略)「本名を呼び名のる」実践は日本の子どももふくめて現代の人間疎外の教育との闘いである。朝鮮民族の子ども,にとって「本名」はその父祖が生きてきたありようを愛情をもって見つめなおす緒であり、自らのおかれている不条理に目ざめる土台となる。「本名」を名のることから闘う主体がつくられていく。長橋小の民族学級は、それまで近よりもしなかった祖母のチマ・チョゴリにまといついて話をせがむ子どもを生み出した。日本人児童、教師は、「本名」問題から自己の生き方を見つめ直し、日本のあるべき姿を見出している」(むくげ復刻版杉谷依子氏による)

10年の歩みの中でともに考え、ともに実践をすすめ、ともに創りあげてきた思想がここに流れている。

「考える会」につどう会員ひとりひとりが、それぞれの教育現場や地域での活動のなかでお互いが作りあげてきた思想をたいせつにしながら、更なる10年の歩みを続けていきたい。

わたしたちの歩みは、また教師集団づくりの実践と運動でもあった。坐折感にうちひしがれた停滞の時期にも、どこかで必ず支えてくれるなかまが現われた。

教育現場や地域に住む「目の前の子どもたち」にこだわり続けながら、日本の民主教育を守りきるという目的意識をともに持ちつづけながらきびしい相互批判を認めあい、励まし支え合う教師の集団をつくる営みであった。

「考える会」運動の発足から、終始一貫して支えてくださった朝鮮奨学会の゙基亨氏や李殷直氏との語らいの中で忘れ得ぬことばがある。たしが基亨氏だったと記憶しているが、励ましの意味をこめて次のように言われた。

「あなたがたが、この旗を降ろすとき、日本には再び軍国主義の嵐が吹き荒れていることでしよう」

最近とみに軍靴の足音が聞こえてきそうな状況を眼のあたりに感じるとき、このことばにこめられた意味は深くて重い。

人はだれでも、父祖の生きてきた道をひきついだ自分を出発として生きる。わたし自身、徳之島という南島に生きたそして今も生きつづける人々にこだわりながら生きてきた。これからもそうありたいとねがう。

子どもたちに民衆の生きてきた道を、民衆の

立場から引きついでいくことがお互いのしごとだろうと思う。

「考える会」にあつまる会員ひとりひとりのご努力と、運営委員会のみなさんに敬意とお礼を申しのべて、連載を終りたいと思う。」

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